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3代目スープラがレース活躍した90年代!勝利のために小さなエンジンに換装した理由

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TEXT: 原田 了(HARADA Ryo)  PHOTO: 原田了、『Auto Messe Web編集部 増田貴広』

ツーリングカー選手権からGTカー選手権へ

 日本国内のモータースポーツで活躍してきたトヨタの歴代スープラ。初陣を飾ったのは85年に富士スピードウェイで開催された国際ツーリングカー選手権の最終戦でもあったインターTEC。輸出仕様車でスープラと呼ばれていたセリカXX(A61型)で参戦した。そして87年に初代スープラ(MA70)は、スポーツランド菅生でデビューウインを飾った。そして時代とともに、スープラ本来の持つ性能を発揮する競争に見合ったかのようなGT選手権が誕生してくると、トヨタは参戦の矛先をそちらに向けてゆくのだった。

 

レース規定でさまざまなハンデを背負うことに

 87年のJTCでデビューウィンを飾った初代スープラ(A70)だったが、翌88年にはFIAの車両規則が変更され排気量のターボ係数がそれまでの1.4から1.7に引き上げられることになった。これで3リッターターボエンジンのスープラは4.2リッターから5.1リッターへと嵩上げされることになり、排気量で定められた最低車両重量は1325kgから1420kgへと100kg近くも重くされてしまった。

 接戦を演じてもらい観客を楽しませようと、レース参加車両の性能をバラつかせないように車両規則が設定されるのは常だが、当事者にとってはこの車重増はかなり厳しい。

 その後、エアダクトを追加し、ターボを変更してエンジンをパワーアップさせたエボリューションモデルを投入したものの、ウェイトが大きく響き、2勝目をマークすることなくA70スープラは現役を引退。95年にはJTCのシリーズそのものも終焉を迎え、これに代わって全日本GT選手権(JGTC)が始まることになった。

 93年の2月にフルモデルチェンジを受けてデビューした2代目、国内でセリカXXを名乗っていた(輸出名スープラ)A40系から数えると4代目となるA80系スープラがチャレンジするレースフィールドも、当然ながらJGTCが選ばれることになる。ただし、A70系スープラがいきなりの規定変更で苦しめられた経験から、メーカー系チームは少しの様子見となった。A80系スープラが先ず参戦してきたのは94年シーズンのJGTC開幕戦。N1耐久(スーパー耐久の前身)車両を再チューニングしたレベルの車両でプライベートチームの2台だ。うち1台は第2戦にも参戦していた。

 しかし、前年までグループAで戦っていた車両や、グループCで活躍していたポルシェ962Cが相手では成す術もなく、姿を消してしまった。写真は開幕戦の1レースのみに出場し、リタイアに終わった望月英弘/石川朗組のグレコレーシング・スープラ。

 

直6エンジンを直4に載せ換えJGTCに再参戦

 94年シーズンから本格的に始まったJGTCシリーズは、JTCから継承された“ハコ車レースの最高峰”だったが、レギュレーション的には大きく異なっていた。その最大のポイントは、市販モデルに搭載されているならば、同メーカーの他モデルからエンジンを転用搭載できたこと。

 この条項に目を付けたトヨタ/TRDは、ベースモデルのスープラが搭載していた3リッター直6ターボを、2.1リッター直4ターボの3S-GTE型に載せ換えることにしたのだ。実はTRDにはIMSAで使用していた3S-GTE型エンジンが残っており、コスト削減の意味合いもあって使用することにしたのだが、もちろん直6ターボから直4ターボに載せ換えることでフロントが軽くなる。前後重量配分でポジティブに作用することも考慮されての決断だった。

 また同時に、グループCレースで活躍していたトヨタTS010からも足回り関係のパーツを流用、結果的にコストを抑えたままハイレベルなGTカーが誕生することになった。

 そんな3S-GTE型エンジン搭載スープラのデビュー戦は94年9月のスポーツランド菅生。トヨタ系有力チームであるサードからジェフ・クロスノフのドライブでの出走となった。当時、国内トップフォーミュラにも参戦していたクロスノフは、いきなり予選2位、フロントローを奪って周囲の期待に応えることになる。続く最終戦の美祢サーキットではポールポジションを奪い、スープラのポテンシャルをアピールしている。ただし残念ながら、決勝ではトラブルから2戦連続リタイアとなった。

 翌95年からはトヨタも陣営として体制を強化、トムスやセルモなどにも車両を供給、全4台がフル参戦を開始している。そして第3戦の仙台ハイランドではトムスの36号車に乗る関谷正徳/ミハエル・クルム組が5番手グリッドから逆転でトップチェッカー、嬉しい初優勝を飾っている。

 翌96年は、同じ3S-GTE型ながらIMSA用の2.1リッターからWRCで使用していた2リッターに変更。これには最低重量での利点もあり、ライバルとして出場していたマクラーレンの“黒船旋風”が吹き荒れる中、セルモのエリック・コマス/竹内浩典が優勝している。

 そして97年には全6戦中5勝を挙げ、トムスのクルム/ペドロ・デ・ラ・ロサ組がチャンピオンに輝き、サードの影山正美、トムスの関谷/鈴木利男組と3位までをスープラ勢が独占。チーム部門でもトムスとセルモの連合軍であるトヨタ・カストロール・チームが王座につきサードが2位につけている。最終戦で勝った5ZIGENもチームランキングで5位へと躍進していた。

 36号車は仙台ハイランドで初優勝を飾った関谷/クルム組。スタートシーンは97年開幕戦の鈴鹿。37号車はGT-R勢に取り囲まれて孤軍奮闘、結果も2位に終わっているが、続く第2戦から怒涛の5連勝を飾っている。

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