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「ホンダF1」50年以上旋風を撒き散らした実績と黎明期のマシンを振り返る

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TEXT: 原田 了(HARADA Ryo)  PHOTO: 原田了、富士スピードウェイ

F1ブーム再来は自動車社会を活性化する

 日本のクルマメーカーが持てる技術をつぎ込んで世界に名を轟かせていたレースの最高峰、F1GP。昨年からホンダのパワーユニット(PU)で戦うトロ・ロッソや、今季からホンダのPUが供給されるようになったレッドブルが好調です。第9戦のオーストリアで初優勝を飾り、第11戦のドイツでは2勝目を挙げ、さらにポールポジションを奪ったり、レース中のベストラップをマークしたり、と目覚ましい活躍をしています。

 それに呼応するように、日本国内におけるF1GPに対する関心も上昇傾向。10月11日(金)~13日(日)、鈴鹿サーキットで「F1日本グランプリ」が開催され、ホンダを搭載するレッドブルの“ホームGP”優勝も期待されています。再び注目度が急上昇したF1GPの、日本国内での歴史を振り返ってみました。

 

1964年からホンダ挑戦と65年メキシコ初優勝

 国内で初めてF1の存在を知らしめたのは、4輪メーカーとしてスタートしたばかりの本田技研工業=ホンダ。前年に軽トラックのT360を発売したばかりでしたが、1964年にはエンジンからシャシーまで総て自社製とした『ホンダRA271』でF1GPに参戦を始めています。

 当時はV8エンジンを搭載するマシンが大多数を占めていましたが、ホンダはV12エンジンを新規開発。しかも横置きに搭載する革新的なパッケージでした。第6戦・ドイツGPからの参戦となったシーズンはトラブルシューティングに追われましたが、翌65年には発展モデルのRA272を投入、2度の6位入賞を経て、最終戦のメキシコでは初優勝を飾っています。

 翌66年シーズンからF1GP規定が変更され、エンジン排気量を3リッターに引き上げ。この新規定に合致する新型マシン、「RA273」はシーズン終盤に登場。翌67年シーズンには改良モデルで参戦しましたが、過大な重量が災いして好成績には繋がりませんでした。

 そこでシーズン途中から急遽仕立てた「RA300」を第9戦・イタリアGPから投入。デビュー戦でジョン・サーティーズが歴史に残る激戦を制して優勝を飾ったのでした。

*白い車体に日の丸が眩しい#20のRA271と#14のRA300はツインリンクもてぎ内にあるホンダ・コレクション・ホールで撮影。#11のRA272は2014年に鈴鹿サーキットで行われたモータースポーツファン感謝デーで撮影。

 

ホンダ一時中断もプライベートチームが挑戦

 1968年シーズンを限りにホンダが活動を休止し、日本国内におけるF1GPヒストリーは一時中断に。その中断を破ってF1GPヒストリーを再開させたのはプライベートチームの「マキ」と「コジマ」でした。

 三村健治さんと小野昌朗さんが中心になり開発された『マキF101』は、フォード・コスワース製のDFVエンジンとヒューランド製ミッション、ロッキード製ブレーキを利用して製作された、いわゆる“キットカー”というもの。

 国内でおおむね製作した後に渡英してロンドンで完成、発表会を行なうなどミステリアスな部分もあったF101は、それまでの空力理論を超越したボディデザインが注目を集めましたが、初めて実戦に登場した74年のドイツGPではコンサバなスタイルへと変身。翌75年は小変更を施した「F101C」に発展しましたが、好結果には繋げることができませんでした。

*F101Cは2017年の鈴鹿、SOUND of ENGINEで撮影。

ドライバーは長谷見昌弘と星野一義

 マキに続いて名乗りを上げた国産F1マシンは、京都に本拠を構える「コジマ・エンジニアリング(KE)」。FJ360/FL500のミニフォーミュラから後のF3に相当するFJ1300、F2000/F2とステップアップしてきたKEが、76年に富士スピードウェイで開催されるF1GPに向けて開発したモデルが『KE007』だったのです。

 やはり“キットカー”でしたが、富士仕様として特化しながらも、全体的にコンサバなデザイン。そんな富士でのF1GPですが、”日本GP”の名称は使用できず”F1世界選手権 in ジャパン”と称したレースとなりましたが、谷見昌弘選手のドライブで予選において他を圧倒する速さを見せつけたもののクラッシュ。結果的に予選10位に留まり、突貫工事で間に合わせた決勝でも完治には程遠く11位完走に留まったのです。

 翌77年の富士、この時初めて「F1日本グランプリ」の大会名が使用されていますが、ここでも発展モデルのKE009が登場。星野一義選手が11位で完走しました。
*走行中のカットは76年のレース中で富士スピードウェイの広報部提供。

 

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