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ミスター・ヨコハマホイール「萩原修氏」ロングインタビュー!レース経験をデザインに活かす

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TEXT: 山田弘樹  PHOTO: 横浜ゴム、af imp、増田貴広

一世を風靡したアルミホイール
「スーパーアドバン」をデザイン

 ADVANスピリットを引き継いだ男。レース経験を生かし、メカニカルでカッコいいホイールを創造する! afimp9月号(2019年8月10日発売)で掲載しました”afimpweb”連動企画、横浜ゴム・萩原修氏のロングインタビュー続編です。

 レース経験を経て、ついにホイールデザイナーの道へ。その思いを熱く語った。afimp9月号(2019年8月10日発売)掲載号のあらすじ横浜ゴム消費財製品企画部ホイール企画/デザイン、チーフ・マーケッティング・プランナーの萩原修サン。かつては、横浜ゴムに在籍しながらレース活動を行うアスリート社員としてF1への登竜門、全日本F3選手権のほか、グループAには日産R32型スカイラインGT-Rで参戦。と、同時に製品企画部でホイール制作をする仕事も担当する。そのような萩原サンのレーシングドライバーからホイールデザイナーへ、華麗なる変身を遂げた秘話に迫る。

 水を得た魚のようにデザインがどんどん湧き上がってきた「スーパーアドバン」「スーパーアドバンレーシング」と立て続けにヒットを飛ばした“ホイールデザイナー萩原修”。
 この成功を受けて萩原サンは、会社にひとつの要求をした。
「会社には当然、タイヤデザイン用のCADはあったんですが、ホイール専用にもこれが欲しい! とお願いしたんです。ホイールOEMメーカーと開発の話をする時に、同じ言語を持ちたかったんです。それと合わせて高解像度のブラウン管ディスプレイ(当時は高解像度液晶はまだなかった)もお願いしたので、1993〜94年当時で1000万円以上は掛かったはずです」
 そしてこの進言とそれを受け入れた会社の決断は、ヨコハマ・ホイールに大きな前進をもたらすこととなった。
「CADが手に入るとまるで水を得た魚のように、デザインがどんどん湧き上がってきたんですよ。CADでやることは、フリーハンドで描いていたときとまったく同じでした。ある一点とある一点をRで結びつける連続であることがわかると、すぐに自由自在に扱えるようになってきたんです」。それはもしかしたら、レーシングフォーミュラの頂点を目指したことと同じだったのかもしれない。ADVANカラーのF3000に乗るという夢を絶たれた萩原サンは、CADを新たな武器として、ホイール作りのレースに名乗りを上げたのだった。

AVSブランドの構築

「当時アフターホイール業界の大横綱はRAYS。レースで上を目指せないのであれば、ホイール造りでレイズさんと日本一を争いたい! って本気で思いました」
 萩原サンが33歳のときの話だ。そんな萩原サンにとって、スーパーアドバンレーシング以降大きなジャンプアップとなったのは、AVSブランドの構築だったという。
「AVSのモデル7とモデル6ですね。確か98年頃だったと思います。レイズさんがまだ伝説の『TE37』を出される直前で、業界でも突然AVSブランドに復活ののろしが上がる感じでした。それ以前にも土屋圭市サンがAVS6という前身のホイールのセンターキャップを外してイメージリーダーになっており、モデル6はそのデザインを踏襲。そしてモデル7で、完全なオリジナルデザインとしました」メカニカル・ビューティーみたいなものが染みついていた。

 この頃から萩原サンはチューナーのデモカーを借り、これをスタジオ撮影してポスターやカタログ、広告を作る手法を行うようになった。「当時オートファッション編集長の山本光孝サンに初めて声を掛けて頂いたのもこの頃ですよ」 AVSブランドが全盛期を迎え、同時にアドバン・レーシングが「RG」を出して本格始動。
「このときは思いついたものを、とにかくどんどん出しましたね。『RG』が出て『TC』が出て、そして『RS』。ただ闇雲に出していたわけじゃなく、このホイールたちが今のアドバンレーシングを支えるベースデザインになっているんです」
 技術的には現在の萩原サンの方がもちろん洗練されており、細かい部分にもこだわれるデザインテクニックを見つけている。

「しかしあの頃の自分は、レースの世界で育ってきた感覚が強くて、レーシングカーが持つ金属的なカッコ良さ……メカニカル・ビューティーみたいなものが染みついていたのでしょうね。だから何がカッコよくて、何がカッコよくないかが自分なりに理解できていて、それをどんどん形にする時期だったのだと思います」

ユーザーが長く使い続けられるデザイン

 萩原サンがホイールのデザインをするとき、大切にしていることがある。それは長きに渡って輝きを失わないことだ。
「自分としては最低でも4年、輝きを失わないことが大切だと思っています。ホイールは高い買い物ですから、それを手に入れたユーザーが長く楽しんでもらえるようにしたい。買って1年でディスコンなんてあり得ない。それがブランディングだと思っているし、そうやってデザインを詰めて出しています。実際に10年ラインアップに残るホイールも沢山あります」。

「メディアの方々からは決まって『今のトレンドは何ですか?』という質問を受けるのですが(笑)、ボクはトレンドを追いかけることが必ずしも得策ではないと思っている。まずしっかりとしたベースデザインがあって、これをアップデートして行くことが基本です」
 しかし萩原サンは、少しずつ変えて行くことだけが良いわけではないと語る。変える必要の無いものは変えず、磨き上げて行く必要があるものは磨き上げて行く。
「そして、ジャンプアップさせるときは一気にやります。RS IIはRSのデザインと近い発展版ですが、RS IIIはそこから大きく飛躍させました。そうしたことができるのも、しっかりしたベースデザインがあるからなんです」

 レーシングスピリッツを感じられるようなホイールを出して行きたい。性能とデザインの両立は?
「それをするためにCADが必要だったんです。3D-CADは同時に強度計算ができるから、数値を下回るようなデザインは基本、金型作製に移行できない。最初は、強度解析でのNG箇所を、それこそ自分の身が切られるかのような思いでデザイン変更していましたよ。でも最近は結構、1発で解析OKなんてこともある(笑)。それこそが、経験の積み重ねなんだと思います」

 そうした経験や積み重ねは、相伝されて行くものなのだろうか?
「そこは難しい問題ですよね……。ボクはレースで培ったものを全てこのホイールデザインに投入していますから、それを後輩達に、同じようにやれ! とは言えないかなぁ。それでもこの部署にも、有能な部下が育っていますよ。それに今は、ボクが絶好調ですから!(笑)。ヨコハマホイールも事業としてはとても順調伸びて来ていて、おかげさまで日本だけではなく、外国も含めて多くの方々からご指示を頂いています」

「そんな中でボクは、ヨコハマホイールのファンを増やして行きたい。ただやみくもに事業としての大成功を狙うのであれば、色々なセグメントのホイールを作って行かなければならないのですが、そうではなくて、ホイールとして1本筋の通ったスピリッツを感じられるようなホイールを出して行きたいんです。それは自分のルーツにはやっぱりレースがあって、まやかしの利かない世界でやってきたスピリッツがホイール作りにも宿っていると言えると思います」

 横浜ゴム全体の収益からすればホイール事業のそれは「とても小さいものだ」と萩原サンは語る。巨大なタイヤメーカーの中にあるからこそ、スポーツホイールに特化することが、ヨコハマ・ホイールの生きる道だと確信している。「小さな米粒だけれど、本当に美味しいお米を作って行きたい。そんな感じでしょうか」 それはまさに、萩原サンが本気でレースに打ち込んでいたときの感覚と同じだと言えるだろう。
 そしてこれこそが、恩師であるADVANブランドの生みの親「水野雅男」氏から叩き込まれたアドバン・スピリッツそのものなのであると思う。

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