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「特製岡持ち」で聖火を搬送! 1964年東京オリンピックで大活躍した「セドリックスペシャル」

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TEXT: 片岡英明  PHOTO: 宮越孝政/日産/トヨタ/写真AC/Auto Messe Web編集部

スペシャルの名にふさわしいスペックを誇る

 1963年2月、日産はVIPのためのセドリックを販売に移している。それが「スペシャル」で、後席の足元空間を広く取るためにホイールベースを145mm延ばして日本車最長の2835mmとした。全長も4855mmの堂々たる長さだ。

 全幅は1690mmにとどまっているが、押しが強く風格があった。心臓はメルセデス・ベンツのエンジンを研究して開発した2825ccのK型直列6気筒OHVを搭載する。日本の乗用車としては最大排気量で、最高出力はグロス115ps/4400rpm、最大トルクは21.0kg-m/2400rpmだ。

 トランスミッションはフルシンクロの3速MT、コラムシフトだった。ちなみに最高速度は150km/hと発表されている。のちにクラッチペダルを廃したイージードライブの3速ATを追加した。

 快適装備も多い。シートは上質なファブリック生地で、広々とした後席にはセンターアームレストが内蔵されていた。トリムで覆ったドアのアームレストには灰皿を装備する。後席専用のヒーターも標準装備だ。しかも強弱2段に調整可能だった。

 ベースの3速MT車の販売価格は、当時としては飛び抜けて高い138万円だ。1963年の大卒の初任給の平均は1万9400円、東京オリンピックが開催された1964年は2万1200円である。セドリック・スペシャルがどれほどの高級車だったか、分かるだろう。新車価格だけでなく自動車税や物品税、保険料などもベラボーに高いから、高嶺の花だった。

 セドリック・スペシャルは時代の先端を行くパワー仕様も設定する。4枚のドアはパワーウインドウだし、2スピーカーのオーディオのアンテナもパワー昇降式だ。驚かされるのは、パワーシートを装備していたことである。運転席は6ウェイパワーシートで、座面の高さを変えるパワーリフターも装備されていた。

 VIPが座る後席は、前後75mmのスライドに加え、リクライニングも可能だ。贅の限りを尽くしたVIPカーだった。ついでにいうと、豪華なカタログに起用した女性モデルは、その当時、超のつく売れっ子だった鰐淵晴子が務めている。

ボディカラーは特別色ではなく純正色のままだった

 セドリックなどのプレミアムセダンが東京オリンピックの協賛車に選ばれ、東京だけでなく聖火リレーの伴走車、搬送車として全国各地を走り回った。トヨタが提供したのはクラウンだ。日産自動車はセドリックを貸与した。プリンス自動車はグロリアを、三菱重工は7月に発売したばかりのデボネアを協賛車両として提供している。

 が、具体的な話がまとまったのは夏が近付くころだった。JOC(日本オリンピック委員会)はボディをオフィシャルカラーのライトブルーに統一したかったが、多くのメーカーは時間がないため純正色のまま送り出している。また、神々しいブラックのほうが好ましいと感じているメーカー関係者も多かった。セドリックを提供した日産も、ブラックのボディカラーのままJOCに引き渡している。

 聖火は8月21日にギリシャで採火され、アジア各国を巡り、当時はアメリカの統治下に置かれていた沖縄に到着した。ここから鹿児島、宮崎、青森、そして北海道に聖火は運ばれ、4つのコースを巡って再び東京で1つになるのである。

 セドリックのなかでリーダー的な存在の「スペシャル」が聖火の搬送を行ったのは、宮崎をスタートし、四国を回り、岡山から大阪、紀伊半島を巡り、京都から東海道を走る第2コースだ。総距離は1826.1kmで、10月8日に東京に到着した。

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