グループA究極のFRマシンでも「轍」に
1987年から適用開始となったグループAによるWRCは、ランチア・デルタHFがリードし、これをトヨタ・セリカGT-FOURが追いかける展開となっていた。グループA規定は、生産車両をベースとするカテゴリーであるだけに、ターボ4WDの生産車を持たないメーカーにとっては不利だった。本格化するターボ4WDのグループBカーを前に、自然吸気のFRカーでしか対応できなかった日産は、このグループA規定移行時にも適切な持ち駒がなく、生産車のなかでもっともラリーカーに適したモデルとして200SXを選んでいた。 200SXはS12型シルビア(正確にはファストバックの180)をベースにする車両で、国内では1.8L、2Lの自然吸気/ターボエンジンを搭載するモデルとして市販されていたが、北米仕様の200SXには3LV6 SOHCのVG30型エンジンを搭載するモデルが用意されていた。 日産は、このモデルにグループAラリーカーとしての可能性を見出したわけだが、サファリを中心としたWRCラウンドで戦う状況は、グループB時代の240RSに酷似していた。パワーとトルクのバランスに優れた自然吸気エンジン、ラリーカーとして使い慣れたFRレイアウトのシャーシやサスペンションで、絶対出力、走破性能に優るターボ4WDのグループAラリーカーを相手にする構図である。
不利は承知でグループAラリーカーとして登場した200SXだったが、日産が本命とするサファリラリーでは、1988年、1989年と2年連続で2位完走を果たしていた。ハンドリングに優れたFRシャーシ、いかなる状況でも扱いやすい3Lの自然吸気エンジン、25年以上の参戦歴を誇るサファリラリーでの戦い方を熟知したチーム運営がもたらした好成績だった。240RS同様、FRラリーカーとして完成されたハンドリングとエンジン出力を持つ優秀な車両だったが、相手がターボ4WDというのはいかにも分が悪かった。
その後、ターボ4WDがWRCでの必須条件であることを再認識した日産は、1991年にターボ4WDのパルサーGTI-R(RNN14)を投入する。だが、ベース車両のキャパシティが不足していることなどから、翌1992年いっぱいでWRC活動から撤退。このときのWRCは、ランチア・デルタHF、セリカGT-FOURに、三菱ギャランVR-4、スバル・レガシィRSを加えたターボ4WD勢がひしめきあう時期で、ベース車両の潜在性能に不備のあったパルサーでは、到底太刀打ちできないというのが実状だった。 車両規定も含めた歴史背景下で、その流れに乗れなかった240RSと200SXだが、両車ともFRラリーカーとしては究極の完成度を誇った傑作車だったことは疑いようもない。時代はターボ4WD、されどFRとしての完成度は究極。自動車ファンとしては、この事実をどう受け止めるべきなのだろうか?