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名車ぞろいのマセラティだが経営は二転三転! 華麗なる名門の裏側とは

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TEXT: 高桑秀典(TAKAKUWA Hidenori)  PHOTO: 高桑秀典/Maserati

  • 100年以上にわたるマセラティの歴史と名車を振り返る

  • 1926年タルガ・フローリオのティーポ26、一番右のアルフィエーリ・マセラティが運転した
  • 1957年のF1で勝ちまくった250F
  • 1963年の初代クアトロポルテ
  • 1971年に登場したボーラ
  • 1981年登場のビトゥルボが大ヒット
  • スーパースポーツカーのMC20
  • マセラティ初のSUVレヴァンテ
  • 現行型の6代目クアトロポルテ
  • 1926年からトライデントのエンブレムが採用された

時代によってブランドのカラーが転変してきたマセラティ

 いつの時代にもマセラティは通好みの存在だ。その歴史は古く、アルフィエーリ(四男)、エットーレ(六男)、エルネスト(七男)というマセラティ3兄弟が、1914年にイタリアのボローニャで創業した。

 優秀なエンジニアであり、無類のモータースポーツ好きでもあったマセラティ兄弟は、すぐさま自分たちの名を冠したクルマを造り始め、1926年のタルガ・フローリオ(往時にシチリア島で行われていた公道レース)で「マセラティ・ティーポ26」がクラス優勝。その後、さまざまなレースで常勝を誇り、1939年と翌年のインディアナポリス500マイルレースも制している。

マセラティ兄弟が創業しモータースポーツで名を馳せる

 1950年代からはF1グランプリやスポーツカー世界選手権においても幾多の優勝カップを獲得し、マセラティはモータースポーツの世界で一躍尊敬されるブランドとなった。名門の風格はこの時代に養われたといえる。そして、その真価が分かる少数のユーザーのために流麗かつ高性能なクーペ、セダン、コンバーチブルを製造し、ロードカーの世界においても高評価を得た。

 とはいえ、それらは社史における初期の話で、長きにわたり同一のキャラクターを守り通してきたフェラーリなどとは異なり、時代に翻弄されたマセラティは目まぐるしく主力モデルの路線を変えることになった。その華やかさの裏で困難な経済状況が続いた、マセラティのヒストリーを紹介しよう。

1926年タルガ・フローリオのティーポ26、一番右のアルフィエーリ・マセラティが運転した

オルシ家に経営権を譲りF1で活躍

 特許を取得した航空機エンジン用の特別なスパークプラグの設計、製造も手がけていたアルフィエーリが1932年に44歳で早世し、兄弟のひとりであった次男ビンドがイソッタ・フラスキーニを退社してマセラティ社に合流した。ちなみに、トライデントのエンブレムは、これまた兄弟のひとりであり、アーティストでもあったマリオ(五男)が作成したものだ。ボローニャのもっとも特徴的なシンボルで、力強さと活力の象徴でもあるマッジョーレ広場のネプチューン像のトライデントがモチーフとなっている。

1926年からトライデントのエンブレムが採用された

 アルフィエーリを失い、ビンド、エットーレ、エルネストという顔ぶれとなったマセラティ兄弟は、1937年にイタリア人起業家であるアドルフォ・オルシにマセラティ社の経営を委ねる。経営権を譲渡した際の契約条件から、マセラティ兄弟はスパークプラグの生産のためのファブリカ・カンデーレ社と、マセラティおよびレースカー生産のためのオフィチーネ・アルフィエーリ・マセラティの経営を担うことになった。

 コンサルタントとして10年間会社に在籍するという契約を終えた3兄弟が1947年に退職し、その後、マセラティはF1グランプリやスポーツカー世界選手権において活躍したが、1957年を最後にワークスとしてのモータースポーツ活動を休止した。

1957年のF1で勝ちまくった250F

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