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もちろん古いけど色褪せない! 「やっぱりジウジアーロは天才だ!」と感じる「いすゞ117クーペ」の存在感

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TEXT: 原田 了(HARADA Ryo)  PHOTO: いすゞ自動車/原田 了/自工会/Auto Messe Web編集部

いま見ても古さを感じさせることのないデザインが魅力的

 国産車は、戦後に大きな進化を遂げています。メカニズムもさることながら、そのスタイリングも1960年代後半になると一気にあか抜けてきました。トレンドとなったのは海外のカロッツェリアやコーチビルダーにデザインを依頼すること。質実剛健なクルマづくりを進めてきたいすゞ自動車はカロッツェリア・ギアを選んで新型車のデザインを発注。いまなお美しさで見る者を魅了する117クーペが誕生することになりました。

117クーペを生みだしたいすゞ自動車という会社とは

 いまでこそ大型トラックやバスの専業メーカーの印象のあるいすゞ自動車は、かつてはトヨタや日産とともに自動車メーカーの“御三家”とされてきました。戦前から大型トラックやバスの専業メーカーとして活動を続けてきたいすゞは、乗用車市場への進出に際しては海外メーカーと契約してライセンス供与を受け、ノックダウン生産から始める道を選んでいます。

 パートナーにはイギリスのルーツ・グループを選び、ヒルマンミンクスのノックダウン生産から始めることになりました。ちなみに、完成車の車名はいすゞ・ヒルマン・ミンクスとなりますが、もともとヒルマンというのは独立系だったメーカー名で、ミンクスが車名。ルーツ・グループ傘下となったあとは、ヒルマンはブランド名となっていました。

 いずれにしてもミンクスは、ルーツ・グループのなかでは量販車種として長く用いられてきた伝統ある車名でした。いすゞが最初にノックダウン生産したのは1953年に登場したヒルマン・ミンクス・マークVIです。ヒルマン・ミンクス

 いすゞでは型式名をPH10として1953年から1956年まで生産を続けたあとにモデルチェンジ、いすゞ・ヒルマン・ミンクスとしては2代目となるPH100型に移行。そしてその後もマイナーチェンジを重ねながらPH200型、PH300型へと移行しつつ、少しずつ自主開発した国産部品に置き換えながら“国産化率”を高めていき、1957年までには完全国産化を達成しました。ヒルマン・ミンクス

 こうして完全な国産車となったいすゞ・ヒルマン・ミンクスの後継モデルとして、完全にいすゞのオリジナル設計となったベレルが1962年の4月に登場します。これは2Lエンジンを搭載しボディもヒルマン・ミンクスよりもふたまわり以上も大きい6人乗りで、個人ユーザー向けというよりもタクシーなどの法人向けの意味合いが強く、事実タクシー・マーケットでは一次的に大きなシェアを得ることになりました。

 それは燃費が好くてランニングコストが安いディーゼル・エンジンをラインアップしていたことが大きなアドバンテージとなったのですが、やがてよりランニングコストが抑えられる液化プロパンガス(LPガス)仕様のクラウンやセドリックが盛り返すことになり、ベレルは1967年には生産を終えています。いすゞ・ベレル

 そんなベレルに代わっていすゞの基幹モデルとなったのが、ベレルから1年遅れで登場したベレットです。ベレットは、そのネーミングからも分かるようにベレルの妹分で、搭載していたエンジンも1.5L直4プッシュロッドのガソリン仕様と1.8L直4ディーゼル。さらに1年後には1.3L直4プッシュロッドのガソリン仕様も追加設定されています。そして同時に1.6L直4プッシュロッドを搭載した1600GTが登場し、いすゞはスポーティなキャラクターを打ち出すようになりました。いすゞ・ベレット

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