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谷口信輝の愛車「R35GT-R」は「リバティウォーク」仕様! 理由は子供たちに夢を与えたいから

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TEXT: GT-R Magazine 野田航也  PHOTO: GT-R Magazine編集部

人生で2台目のGT-Rは度肝を抜くルックスに!

 ドリフト出身でレースデビューは28歳と遅咲きながら、スーパーGTやスーパー耐久などで数々のタイトルを獲得。チューニングカーのタイムアタック請負人としても期待以上の結果を残す器用な仕事人。愛車に対する拘りが人一倍強いことでも知られる谷口信輝選手にとって、GT-Rはどんな存在なのだろうか? 

(初出:GT-R Magazine 157号)

ハチロクでドリフト三昧だった若かりしころ

 とにかく負けず嫌いで、自分より上手い(速い)人がいた場合、勝つための方法論を探す、あるいは吸収することで答えを見つけ、結果的に上回ってみせる。二十数年前、生まれ故郷の広島から神奈川に出てきたころから旧知の仲である筆者にとって、谷口信輝選手のスタンスは今も昔も変わらない。彼のドライビングは、ドリフトだろうがタイムアタックだろうが、いつもスムーズで無駄がないのだ。

 小さいころにはクルマよりも自転車のほうが好きだったと語る谷口選手。

「幼少期は自転車、小学5年生くらいからはオフロード用のBMX、16歳になってからはバイクと、年齢とともに没頭する対象は変わりましたが、基本的に2輪が好きでした。BMXでは飛んだり跳ねたりウィリーしたり。バイクはモトクロスもやりましたが、途中からはミニバイクのオンロードレースにハマり、18歳で日本一を獲りました」

 その後、19歳のときバイクで走行中に一般道で交通事故に遭い、全治3カ月の重傷を負ってしまった。その間に所属していたチームが谷口選手を乗せていたバイクを売ってしまったこともあり、2輪のレースは辞めることにした。そして、方向転換した先がドリフトだった。

「信号待ちをしていたら、前にいたハチロクが信号が青になった途端、テールを滑らせてドリフトしながら曲がっていったんです。自分も4輪であのくらいはできるようになりたいなと思いました」

 初めての愛車はバイク運搬用に購入した日産キャラバンだった。レースから遠ざかったこともあり、次に選んだのがハチロク(トヨタAE86)。毎日のように地元の峠を走る生活を送るようになったという。

「さんざん走って深夜に家に帰り、布団に入って頭の中で復習するんです。あそこでこうしたらもっと上手くいくとか、いい考えが思いつくと、起き上がってもう一度走りに行って実際に試したり。若いころはそんな毎日でしたね」

 都合5台のハチロクを乗り継いだ後、もっとパワーのあるS14シルビアに乗り替えた。そのころには全国的に名前が知られるようになっており、ビデオなどに出演する機会も増えていった。

R32GT-Rで大会に出場するも結果は……!?

「当時はFRにしか興味がなく、FFや4WDは眼中になかったです。土屋圭市さんがマイカーのR32でドリフトしたりグループAレースで闘っているのを見ていたので、GT-Rに対する憧れはありました。『カッコいいなぁ』と。でも、自分には手が届かない存在でしたし、身の丈に合わないと思っていましたね」

 そんな谷口選手だが、じつは一度だけR32GT-Rでドリフト大会に出場した経験がある。’95年に福島県エビスサーキットで開催されれた「第一回ドリフト統一チャンピオン決定戦」である。当時人気を博していた「いか天」「ドリコンGP」「筑波STCC」の歴代チャンピオンたちが集結し、統一王座を決めるという大会であった。谷口選手は地元広島のパーツメーカーのデモカーを駆り、エビスサーキットへと乗り込んだのだが、思うような結果を残せなかった。

「パワーがあったほうが有利だろうということでシルビアではなくGT-Rで参戦したんです。ヒューズを抜いてフロントの駆動をカットしてFRにしました。でも、ドリフトするには車体が重いしステアリングの切れ角も少ない。まったくいい走りができませんでした」

 ちなみに、この大会で統一チャンピオンに輝いたのは当時レースにも参戦していたドリコンGP覇者の織戸 学選手であった。その後、シルビアひと筋でドリフトに没頭した谷口選手は、S14シルビアの後はS15に乗り替え、’01年シーズンのD1グランプリで初代チャンピオンの座に輝いている。

 2輪のレースに続き、ドリフトでも日本一の称号を得たことで4輪のレースへの道も開かれた。『HKS』のワークスドライバーとしてD1グランプリに参戦すると同時に、アルテッツァワンメイクやスーパー耐久、全日本GT選手権でもレギュラーシートを得た。また、チューニングカーのタイムアタッカーとしてのオファーも増え、’04年にはHKSが製作したランサーエボリューションVIIIベースの「TRB‒02」で当時のチューニングカー筑波最速記録となる55秒0を記録。1000psを優に超えるハイパワーのチューンドGT-Rでも好記録を連発し、チューニングカー使いとして有名だった山田英二選手と比肩するタイムアタッカーとして、確固たるポジションを確立していった。

R35には良い印象と悪い印象があった

 第2世代GT-Rの時代はシルビアにしか興味がなく、R32での苦い思い出もあってチューニングカー以外ではGT-Rとの接点はほとんどなかった。しかし、’07年にR35がデビューしたことで、風向きが変わり始めた。

「R35がデビューして初めて乗った時、とにかく直線の速さに驚きましたね。『コレ、本当にノーマル?』と思うほどの加速でした。その反面、コーナリングに関してはあまりいい印象を持たなかったです。とにかく車重が重く、初期型の純正サスはあまりバランスもよくなかったと記憶しています。カーブで限界を超えると電子制御が邪魔をして挙動が破綻しそうになってしまう。サーキットでは姿勢制御を安定させるVDCを切って走りますが、R35は完全にはオフにならないんです。そこもちょっと嫌でした」

 HKSの契約ドライバーを務めていたこともありパーツ開発でR35に乗る機会も多く、ビデオや雑誌の仕事も抱えていたため、必然的にR35をドライブする回数は増えていった。

「’10年に初期型(07年式)のR35をユーズドで手に入れました。これが愛車としては初めてのGT-Rでした。自分にはポリシーというか、クルマを買ったら即実行する3つの儀式があるんです。それがシャコタン/ツライチ/TVキット(笑)。R35も即効で車高を下げて、スペーサーでツライチにしました」

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