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軽自動車が普通車を圧倒! 10年で9回王者に輝いた衝撃の「アルトワークス」伝説

軽自動車ならではのモータースポーツ力

 エンジン排気量や車体サイズが制限される一方で、税金の負担が軽く、車両の購入や維持が手軽なことから、幅広く根強い支持を受けている車両が軽自動車だ。戦後の復興期を経て成長期に入った昭和30年代、個人の移動手段として自動車が必要不可欠と判断された結果、余剰性能や贅沢さといった付加価値を極力排除し、自動車として必要最低限の基本機能を満たす要項で始まった日本独自の車両カテゴリーである。

 この軽自動車、排出ガス対策や高速道路網の拡充、安全性といった時代の流れに応じ、発足時の360cc規格から550cc規格の時代を経て現在の660cc規格にいたっているが、モータースポーツの世界でも一大勢力を築き上げていたことをご存じだろうか? 

軽自動車エンジンの「ミニF1」から異彩を放つ

 軽自動車によるモータースポーツは、元をたどれば1963年の第1回日本グランプリに行き着くが、本格的に立ち上がるのは1970年代で、軽自動車のエンジンを使うフォーミュラカー、「ミニF1」とも言われたFJ360がその発端となった。以後FL500/FL550と発展するが、なぜか量産車をベースのカテゴリーはなかなか育ってこなかった。
 ところが、排出ガス対策が決着し、再び性能追求が許されるようになった1980年代に入ると、それまで封印されていたパフォーマンステクノロジーが一気に解放され、4バルブDOHC化やターボ化の波が軽自動車の世界に押し寄せることになる。軽自動車は、がまんや性能妥協の産物という車両概念が打ち破られたのだ。

アルトにターボ登場で日本ラリー界で大暴れ

 こうした時代背景で、どのメーカーも軽自動車の高性能化を競っていたが、ひときわ他を圧する性能のモデルが1987年に登場した。スズキが繰り出したアルト・ワークスである。

 アルトは前年の1986年、軽自動車としては19年ぶりにDOHCエンジン(F5A型)を復活させて話題となっていたが、アルト・ワークスは、さらにこの4バルブDOHCにターボを装着する大胆な商品企画で登場。加えて4WD方式と組み合わせることで、文字どおり最強の軽自動車を目指していた。

 アルト・ワークスをひと言でいえば、車体は軽量コンパクトな軽自動車サイズでありながら、エンジンはリッターカーをしのぐ出力(64ps)を持ち、強力なトラクション性能を持つ4WD方式と組み合わせ、日本のモータースポーツ界、とくにグラベル路を主体とするラリーフィールドで、圧倒的に有利な条件を備えていた。
 ちなみに当時の全日本ラリー選手権は、排気量順にA、B、Cの3クラスが設けられ、アルト・ワークスはターボを持ちながら排気量換算で1000cc以下の最小排気量クラス、Aクラスに区分されることになり、本来このクラスの車両であるマーチ、シャレードのリッターカー勢を完全に凌駕してしまったのである。

90年代の国内ラリーで小排気量Aクラスに君臨

 また、参戦体制が充実していたのもアルト・ワークス特筆事項のひとつだった。サポートは実質的にワークス体制に準じるスズキスポーツ(現モンスター・スポーツ、代表:田嶋伸博)が担当し、ドライバーには天才の呼び声が高い粟津原豊が起用されていた。

 アルト・ワークスは、投入初年となった1988年に坂昭彦がAクラスのタイトルを獲得。そして1989年から1991年まで粟津原が3連覇。1992年は堀田憲幸のダイハツ・ミラTR-XXにいったんタイトルを譲る。

 が、再び1993年から1995年まで、さらに1997年から1999年まで2度の3連覇を成し遂げ、粟津原は合計9度のAクラスチャンピオンを獲得。まさに、アルト・ワークス強し、粟津原豊強しというAクラスの10年だった。

 全日本ラリー選手権は、1990年代から2000年代にかけ、排気量区分(時代によって排気量の区切りも変化する)のほかに、駆動方式(2WD/4WD)の違いもクラス区分の条件に加えられ、参戦クラスが細分化する傾向を強めていったが、ダイハツが2000年に713ccのストーリアX4を繰り出すまで、軽自動車のアルト・ワークスはAクラスの王者として君臨し続けた。

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