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110サニー、スーパーシビック、KPスターレット! 昭和の若者が何故「ワンメイクレース」に熱狂したのか

より身近だった昭和のモータースポーツ

 参加型モータースポーツにも色々ある。最近なら「N-ONEオーナーズカップ」や「86/BRZレース」といったワンメイクレースや、TOYOTA GAZOO Racing主催の「ラリチャレ」がそれにあたる。ではかつての、具体的には1990年以前のそれはどんな様相だったのか。青年時代に自身もその世界へ身を投じていた自動車ライターに、当時の盛り上がりを振り返って貰った。

「グラチャン」とともに訪れた第1次ピーク

 昭和の時代、B110サニーを中心とした「プロダクションカーレース」が盛んになり、参加型モータースポーツは一時頂点に達した。またその他にも27レビン、サバンナRX3などがアマチュアドライバーによって各地を駈けた。

 1970年「排出ガス規制」により自動車メーカーがレースから相次いで撤退していったあと、ワークスドライバーといわれたメーカー系以外のレーサーたちがさまざまにレースを盛り上げていった。象徴的なのが1971年から富士スピードウェイで開催された「グランチャンピオンシリーズ」。裕福な人たちが海外からレーシングカーを購入し、レースに挑んだ。

 その前座として「特殊ツーリングカー」と呼ばれた改造した市販車で競うレースが催され、マイナ―ツーリングクラスではB110サニーやスターレットが競い、「スーパーツーリングカークラス」ではいわゆるハコスカGT-Rと愛称されたGC10やサバンナRX3が戦った。それらを運転したのは、自動車メーカー系や関連する契約を手にしたレーサーたちだった。

 それらとは別に、一般の人々が遊べるレースとしてプロダクションカーレースがあった。もっとも手ごろな車種がB110サニークーペで、多くの参加を集めたがワンメイクレースというわけではなかった。

 ロールバーなどの安全装備と車高を下げるサスペンションなど、安定した走行を得るために最低限の改造は許されたが、エンジンやサスペンション形式の変更、オーバーフェンダーなどの改造は許されずに市販のまま。タイヤ寸法も量産市販の車体に収まる範囲でスチールホイールを使い、「セミレーシング」といわれたダンロップG5という銘柄を用いた。当時はワンメイクタイヤというより、サーキット走行に耐えるタイヤの選択肢がほかになかったのだ。そしてこのタイヤは、まだ内部がバイアス構造である。

 私のレースデビューは、B110サニークーペでのプロダクションカーレースで思い出深い。レース人気は高く、また参加台数も多く、予選落ちもあった。当時は筑波サーキットで1分20秒を切ることが予選通過の保証目安だった。1分を切る高性能市販車もある現代と比べると隔世の感がある。それでもアルバイトをしたお金で思い切って走れる喜びを体感した時代だ。

クルマの性能と共に成熟していく「ワンメイクレース」

 80年代もなおB110は生き延び、プロダクションカーレースは盛んだったと記憶する。ただやがてB110の程度の良いレース車両がなくなってくると、プロダクションカーレースも次第に衰退していった。

 それを受けて開催されるようになるのが、いわゆるワンメイクレースだ。80年代も後半に入るとバブル経済期に入っていき、各自動車メーカーがコンパクトカーでもより高い性能を競うようになっていく。

 たとえば鈴鹿サーキットでは2代目ホンダシビックによるワンメイクレースが開催され、これにはプロのレーサーも招くなどして注目を集めた。 その後スターレットやFFになったファミリアなども入門用のワンメイクレースとして開催され、90年代に入るとロードスターやRX-7のワンメイクレースも行われるようになった。

 近年では輸入車の愛好者も増え、それらはあまりにも高性能であるため公道でそれを満喫するのが難しい。そこでサーキット走行会とともに、ワンメイクによるレースも開催されている。クルマを楽しむという上で、ワンメイクは価値ある参加型レースといえる。いっぽう競技の面白さにはメーカーの違いによる「勝ち負け」の側面もある。それによって参加型モータースポーツでも、観て楽しむ面白さが生まれる。

 ジムカーナやラリーはいくつかの車種が同じクラスで競うため、運転の腕を争うだけでない点で興味も沸きやすい。もちろん優れた成績を出しやすい車種というのはあるだろうが、あえて別の車種で挑むのも、参加の醍醐味だろう。 かつてB110サニークーペでほぼ一色だった時代、あえてスターレットやシビックで挑戦した人たちがいて、それらは語り草にもなった。

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