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伝説は最強だから生まれる! 「ポルシェ956 」&「マクラーレンF1」がレースに残した圧巻の爪痕

ポルシェ956とマクラーレンF1

華々しいデビューを飾り80〜90年代レースシーンを席巻した伝説のモデル

 国産車以上にモータースポーツの歴史にその名を刻むマシンを輩出している海外モデル。数あるなかからピックアップするのは相当悩ましいが、1980~1990年代のエポックメイキングと呼ぶにふさわしく、個人的に印象に残った2台のマシンを選んだ!

モータースポーツ史上最強の名は疑う余地なし「ポルシェ956」

 モータースポーツの歴史のなかで、最強の誉れ高いマシンといえばポルシェは外せない。市販車ベースでも数多くの名車をレースの世界に送り出してきたが、今回は市販車ではなく、グループCレーシングマシンの新たな歴史の扉を開き、そのカテゴリーで最強の名を欲しいままとしたポルシェ956をピックアップしたい。

 1982年にFIAが新たに規定した、グル―プCカテゴリーに参戦するため開発したプロトタイプカー。何よりすごいのはワークスマシンだけでなく、1983年からカスタマー向けに販売されたプライベーターでも好戦績を残していることにある。ミッドに搭載された水冷水平対向6気筒(初期はシリンダーヘッドのみ水冷)エンジンの排気量は2.65Lで、これをツインターボで過給。1.2バールから650㎰を絞り出していた(圧縮比は7.2とかなり低い)。シャーシはアルミ製のモノコックで、従来のポルシェ936の鋼管スペースフレームから大きくしたのも特徴。カウルは当初FRPであったが、1983年からカーボンとなるなど、現代に通ずるレースカーの過渡期であったことがうかがい知れる。

 フォルムは低ドラッグ、低ダウンフォースを狙ったローウイング&ロングテール仕様で、最高速はル・マンのユノディエールの直線で370km/hオーバーに到達した。

1982年のデビュー戦でいきなりポール獲得の偉業を成し遂げた

 1982年5月のWEC(スポーツカー選手権)でデビューすると、いきなりポールポジションを獲得。第4戦ではル・マン24時間レースで初優勝(しかも1・2・3フィニッシュ)を飾り、以後1985年まで4連覇(1984,1985年はセミワークスといえるヨーストレーシングの勝利)を記録する。WECで3年連続ドライバーズ、メイクスのダブルチャンピオンとなるなど、圧倒的な強さを誇った。

 日本には1983年にJSPC(全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権)の開催に合わせて、ノバ・エンジニアリングが956を持ち込み、1983年、1984年シーズンで2連覇を果たしている。1985年からポルシェ・ワークスがエボリューションモデルである962Cを投入すると、徐々に新型へと移行。レギュレーションの変更で1986年いっぱいで参戦不可となり、そのまま引退となった。ただし、956が世界に与えた影響は大きく、多くのメーカーは956を研究し、ノウハウを吸収。各国のマシン開発に大いに貢献した。まさにCカーのお手本ともいえるモデルだったのだ。

ル・マンやJGTCで活躍した伝説のモデル
「マクラーレンF1 GTR」

 ツーリングカーの主役はいつの時代もポルシェだが、ぽっと出の新興勢力ながら王者ポルシェを打ち負かしたマシンがマクラーレンF1だ。マシンデザイナーとして一時代を築いたゴードン・マーレーが「20世紀最後の工業製品として10年、20年見劣りすることのないクルマ」を目標に掲げて設計が行われ1991年に発表。1993年に54万ポンド(当時のレートで約9600万円)という、当時としては驚愕の価格で販売されたスーパースポーツカー(日本での発表会は英国大使館で行われた)であった。

 類い希な運動性を実現するために、F1譲りのカーボンコンポジットを使った軽量モノコックボディを採用し、各部にも軽量素材を多用。シートはドライバーをセンターに置いた3シーターを採用し、トランクスペースもホイールベース内に置くなど、重量配分の最適化も徹底され車重は1140kgに抑えられていた。

 シートの後ろにマウントされるエンジンは幻のBMW M8(850ベース)用に開発されたエンジンの進化版で、レース車両と同じドライサンプ方式の6.1L DOHC V12気筒は627psを発揮。最高速は380km/h以上と圧巻のパフォーマンスを実現した。また、世界最高峰の性能を達成しながら、初代NSXのように日常で使える快適性に配慮されており、究極のデイリースーパーカーでもあった。

レース仕様の「マクラーレンF1 GTR」が
1995年にデビュー!

 ドライバーに優しく、グル―プCやF1の技術が投入されたこのマシンをモータースポーツに参加するチームやドライバーが放っておくはずがない。BPRGTシリーズ(のちのFIA GT1につながる)に参戦するドライバーの依頼からレース仕様のマクラーレンF1 GTRがデリバリーされ、1995年のル・マン24時間レースでは初出場初優勝している。

 このときのドライバーのひとりが関谷正徳選手で、日本人ドライバーとして初のル・マンウイナーに輝いている。また、1996年には全日本GT選手権にも初参戦。ライバルを寄せ付けない圧巻の走りで、コンストラクター&ドライバーのダブルチャンピオンに輝いた。

 ただし、1996年以降はFIA-GT選手権のレギュレーションの変更により、多くのメーカーがGTカーから本格的なレース専用車両へと移り変わるなか、GTRも大幅に手が加えられたエボリューションモデルを投入した。しかし、ロードゴーイングありきの考えで生産されるマクラーレンF1では勝ち目がなく、1997年秋にBMWからのエンジン供給終了がアナウンスされ、1998年に生産を終えている。わずか5年の販売期間(64台を製造とされている)ながら、スーパーカーとしてもレーシングカーとしても大きな爪痕を残した。ちなみに2020年にその後継車にあたるゴードン・マレーT.50が発表されている。

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