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国内のトップカテゴリを総なめしてチーム国光を設立! ル・マン勝利をももぎ取った【天才・高橋国光の足あと 第2回(全3回)】

高橋国光さんの生涯を振り返る3回シリーズ第2弾

フリーのドライバーとして名を馳せ、自らのレーシングチームも実現

 国内モータースポーツのレジェンド、高橋国光さんの足跡を振り返る企画として、1回目の前回は2輪ライダーのころの話を中心に振り返りました。ホンダに認められてワークスライダーとしてWGPに参戦し、西ドイツGPで優勝を遂げたものの、マン島でクラッシュ。1年後に復帰した後に4輪にコンバートして日産のワークスドライバーとなり活躍し、全日本F2000/F2や富士GCにも参戦したのです。2回目の今回は、その後日産を離れてフリーのドライバーとして活躍し、その一方で自らのレーシングチームを立ち上げた辺りを振り返ります。

全日本F2000/F2選手権と富士GCの両シリーズに本格参戦

 日産ワークスだった国さんは、同僚の黒澤元治選手や北野 元選手、長谷見昌弘選手などがプライベートチームから全日本F2000選手権や富士GCシリーズに参戦するようになったのを追いかけるように、1974年には富士GCシリーズへレギュラー参戦を始め、翌75年には全日本F2000選手権にスポット参戦でデビュー。76年以降は両シリーズにフル参戦するようになりました。当時、この2シリーズに参戦して活躍することがトップドライバーの証とされていました。

 日産ワークスでその実力は折り紙付きだったものの、70年代に入ってワークス活動が市販モデルをチューニングしたツーリングカーやGTカーに制限されてしまいます。活躍の場が限られていた国さんは、この両シリーズに参戦し、いきなりトップ争いに加わったことで、名実ともにトップドライバーであることを証明する格好となりました。

 ちなみに当時の国さんの成績を紹介しておくと、74年の富士GCではデビュー2戦目には早くも優勝を飾り、全5戦中1戦をパスしたもののシリーズ4位。翌75年は2ヒート制となった開幕戦で高原敬武選手と1、2位を分け合い、最終戦でも優勝し高原選手に次ぐシリーズ2位につけていました。

 また当時の国内トップフォーミュラのF2000では本格参戦となった76年シーズンに早くも表彰台の一角を奪うと、翌77年には2回の優勝を含めて全8戦中6戦で表彰台を奪い、残る2戦も4位入賞、とコンスタントに上位入賞を続けていました。有効ポイント制でチャンピオンは星野一義選手に譲る格好となりましたが、総獲得ポイントでは星野選手に15ポイントの差をつけてトップという大活躍を見せていました。

ヨコハマタイヤの開発ドライバーとしても貢献

 それまでグループ6に則ったオープン2シーターのレーシング・スポーツカーで戦われていた富士GCシリーズは、1980年に車両規則が変更され、Can-Amと同様にシングル・シーターの参加も認められるようになりました。これを機会に国さんはロイスRM-1をドライブすることになります。これはF2用のシャシーに単座オープンのスポーツカーカウルを被せたマシンで、解良喜久雄さんと由良拓也さんの共作で出来上がったものでした。

 それを国さんがドライブして圧倒的な速さを見せつけたために、由良さんの「ムーンクラフト」で製作するムーン・クラフト・スペシャル(MCS)の第二世代モデルMCS2以降も同様に、F2用のシャシーにカウルを被せるマシンづくりが一般的になっていきました。

 また、それまでダンロップタイヤで走ることの多かった国さんですが、80年からF2に、82年から富士GCにタイヤ供給を始めた横浜ゴムと契約し、開発ドライバーを務めることになりました。国さんは、高橋健二選手とともに上位で戦えるタイヤを開発するべく奮闘。3シーズン目となった82年の全日本F2では、シリーズ2戦目の富士で健二選手がヨコハマタイヤに初優勝をもたらします。一緒に開発してきた健二選手の優勝を、まるでわがことのように喜んでいた国さんでしたが、翌年の富士では健二選手と1-2フィニッシュを決め、横浜ゴムのスタッフとともに喜びを爆発させていました。

グループCとグループA、GT、そしてチーム国光を設立

 ヨコハマタイヤを開発しながら全日本F2/F3000や富士GCに参戦していた国さんは、1983年から始まったグループCによる全日本耐久選手権/全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)と、85年から始まったグループAによる全日本ツーリングカー選手権(JTC)にも活動の場を広げていきました。

 JSPCではポルシェ956/962Cのトップマシンを得たこともあり、フル参戦を始めた1985年に全6戦中3戦で優勝を飾ってチャンピオンに輝くと、86年(全6戦中優勝2回、2位2回)、87年(全6戦中優勝2回、2位1回、3位2回)と3年連続でシリーズを制覇。未勝利に終わった88年はシリーズ4位に留まりましたが、翌89年には全5戦中で優勝は1回のみだったものの、全戦で6位以内と安定した成績で4度目のチャンピオンに輝いています。一方のJTCでは初年度から4シーズンは三菱スタリオンで参戦し、86年から87年にかけて計3勝を挙げていました。

 さらに「チーム国光」を設立。1992年から2年間は、国さんを師と仰ぐ土屋圭市選手とコンビを組み、日産スカイラインGT-Rで参戦し、2シーズン目のオートポリスで優勝を飾っています。そしてJTCが93年一杯で終了し、それに代わってGT-Rが活躍できる場として全日本GT選手権(JGTC)が94年から始まると、2シーズンはポルシェ911RSRで参戦していましたが、96年シーズンからはホンダのNSXで参戦を続けています。

NSXでル・マン24時間クラス優勝を達成する

 そのNSXがレースにデビューすることになったのは、国さんがホンダに対してNSXによるレース活動を提案したことがきっかけとなっています。社内でもNSXでレース活動を始めようという機運が盛り上がってきていましたが、当時の川本信彦社長から禁止令が出て、一度は暗礁に乗り上げていました。そこで国さんは、WGPに出場していた当時の監督だった河島喜好元社長(本田宗一郎さんから引継いだ2代目社長で当時は同社最高顧問)に掛け合い、河島元社長からプロジェクト遂行のお墨付きをもらったことでNSXのレース活動が実現したのです。

 NSXのレースプロジェクトはル・マン24時間レース参戦や、JGTC参戦へと発展していきますが、その原点にあったのは国さんの「いいスポーツカーがあるのにレースに使わないのはもったいない」との想いでした。それはとりもなおさず、レース界、モータースポーツの世界を盛り上げたい、という想いでもありました。2輪から4輪、ともに最高峰のレースで活躍した国さんだけに、その想いは関係者も含め、じつに多くの人たちの、心の琴線に触れることになりました。

 JGTCではシリーズをプロモートするGTアソシエイションの代表を務め、JGTCを盛り上げる活動に邁進していました。そしてそのGTアソシエイションで不祥事が起きた際にも、自らはその不祥事に関わりはないものの潔く身を退いています。

 ある時、インタビューのメインテーマを聞き終えてレコーダーを停め、世間話に花が咲いたときのこと。「なんで国さんが辞めなきゃいけなかったんです!」と不条理への不満を口にしたところ「問題があったら誰かが責任をとることも必要。それが上に立つ人間の仕事だから」と恬淡な口調でお話しされていたことを思い出します。国さんにとって重要なのは、レースのために何をなすべきかということ。一連の出来事もその想いに尽きるものだったのでしょう。

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