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まるで手作りミニF1「ベルコウエスト759」が全開走行! 70年代序盤にサーキットで活躍したミニフォーミュラとは

ベルコウエスト759のフロントスタイリング

3連勝を飾ったベルコウエスト759

 やがてF1GPマシンまで製作するようになる国内のレーシングカーコンストラクターですが、彼らの多くがその第一歩として手掛けたのはミニF1と呼ばれていたFL500でした。1970年代序盤にサーキットで猛威を奮った手作りのミニF1たちを紹介するシリーズの第1回は、日本人初のF1ドライバーとなった中嶋 悟さんが初めてドライブしたフォーミュラカー、ベルコの西日本代理店のベルコウエストが製作したベルコウエスト759です。

サーキットの現場主体で大きく成長したミニフォーミュラ

 FL500というのは1970年代当時の軽自動車用エンジンを搭載したレーシングフォーミュラです。国内で最初のフォーミュラレースが行われたのは、1964年に鈴鹿サーキットで行われた第2回日本グランプリ。JAFの名を冠したJAFトロフィーが、その最初のレースとなりました。

 のちのF3にも相当するフォーミュラ・ジュニアによるレースで、来日したドライバーが持ち込んだブラバムやロータスが主役となっていましたが、フォーミュラレースが盛んになっていくのは1970年代になってからです。

 軽自動車のエンジンを搭載したFL500が登場して多くのコンストラクターが誕生、マシンを製作したことが大きな理由となりましたが、鈴鹿と富士に加えて野呂山スピードパークや筑波サーキット、北海道スピードウェイ、中山サーキット、そして厚保サーキットなどが続々と開設されたことも見逃せません。

 JAFもフォーミュラ振興策を打ち出して、紆余曲折はありましたがトップフォーミュラにF2000、その下にF3に相当するFJ1300、そしてもっともボトムな位置にFL500が置かれていました。FL500についてもう少し詳しく説明しておくと、JAFは当初、排気量が当時の軽自動車と同じ360ccまでとしたFJ360を公認し、エンジンの排気量を500ccまで拡大したクラスをFL500、つまりフォーミュラ・リブレ(規格から外れたクルマ)として扱っています。

 JAFが認めたFJ360は燃料タンクなどの規制が緩くなっていましたが、FLでは燃料タンクをもっと大きく高価なものにする必要も出てきました。しかし、自然発生的に誕生したFL500の人気が急上昇する一方で、FJ360の人気が高まることなくFL500はFJ360に準じた車両規定のままJAFから公認されることになったのです。

 ちなみにFJ360(当初はF360)とFL500だけでなく、FL550という車両規定も存在。これには軽自動車のエンジン排気量が360ccから500cc、550ccと変わっていったことが影響していますが、本稿では最もポピュラーなネーミングであるFL500に統一して話を進めていきます。

プロフェッショナルなコンストラクターが続々と誕生

 そんなFL500レースに向けて、国内では数多くのコンストラクターが誕生しています。それはやがて、筑波サーキットをホームコースとする関東勢と、鈴鹿サーキットをホームコースとする関西・鈴鹿勢、二大勢力を形成することになりました。

 当初は、文字通りバックヤードビルダー=裏庭で、ハンドメイドで仕上げたモデルも少なくありませんでしたが、やがてFL500(のシャシー)を生産・販売する、プロフェッショナルなコンストラクターが誕生してきます。関東勢で量販の先陣を切ったのは鈴木板金でした。ベルコのブランドを立ち上げてベルコ96Aを1970年にリリースしています。

 一方、関西勢では大阪に本拠を構える林カーショップ(ハヤシレーシング)がプロトモデルの702Xを発展させた702Aを、やはり1970年にリリースしています。今回紹介するFL500マシンは、関西勢の新進コンストラクター、ベルコウエスト(現ウエストレーシングカーズ)が1975年にリリースしたモデルで、車名はベルコウエスト759です。

 ベルコウエストの名が示すように、創設者の神谷誠二郎さんは関東のベルコでクルマ作りの修業をしたのち、1973年に地元に戻ってベルコの代理店としてベルコウエストを立ち上げ、それからわずか1年余りあとに、完全なオリジナルマシンの759を製作したのです。

テーパード・モノコックにインボードサス

 黎明期のFL500マシンは、いずれも角パイプを溶接して組み立てる鋼管スペースフレームを採用していました。そしてそれはやがて、アルミパネルを張り付けたセミ・モノコックフレームへと移行し、さらにアルミパネルのツインチューブで構成されるモノコックフレームへと進化していきます。

 FL500が始まった当初は、まだまだ鋼管スペースフレームが主流でした。大阪に拠点を置くハヤシレーシングの処女作、702Aは鋼管スペースフレームを採用していました。一方、関東の雄、鈴木板金のベルコ96Aは、モノコックフレームを採用していました。量販を考えると、モノコックフレームの方が理に適っていますが、まだ黎明期のFL500にモノコックフレームを採用した辺り、鈴木板金の気合の高さが窺えます。

 それはともかく、鈴木板金で修業してクルマ作りを習得した神谷さんは、オリジナルマシンの第1号となるベルコウエスト759に、迷うことなくモノコックフレームを採用。もう少し詳しく言うなら3/4モノコックで、その後方にエンジンを搭載し、サスペンションを取り付けるためのサブフレームが組まれています。

 これは搭載するエンジンが、ホンダN360用のN360Eであれ、スズキ・フロンテ用のLC10Wであれ、横置きにマウントされていたために、ストレスマウントなど考える余地もなかったため。これに前後ダブルウィッシュボーン式のサスペンションを組み付けるのが、当時のレーシングカーとしてコンサバな設計だったのです。

 ただしベルコウエスト759は、各所に最先端のメカニズムが盛り込まれていました。モノコックは、上方から見るとフロントが絞られ、後方にいくにしたがって広がっていくテーパー状になっていて、それは正面から見てもツインチューブの断面が上にいくほど絞られた多角形となっていたのです。

 またフロントサスペンションも上下にAアームを持つコンベンショナルなスタイルでしたが、アッパーアームのフロント側はピボット・ポイントからさらに内部に延長され、ロッキングアームとしてインボードマウントされたコイル/ダンパーユニットに作用するスタイルとなっていました。またノーズカウルをスリークなものとし、ラジエターをエンジンの両サイドにマウントしたのも特徴的でした。

 ベルコウエスト759のデビュー戦は、1975年の4月に鈴鹿サーキットで開催された鈴鹿ビッグ2&4チャンピオンレースのサポートレースとして実施されたFL500チャンピオンレース。ドライバーは、のちに日本人初のF1ドライバーとなる中嶋 悟さんでしたが、じつはこれがフォーミュラレースは3戦目でした。しかし公式予選で道上佐堵史(道上 龍選手のお父さん)、中本憲吾の両選手に続き3番手グリッドを獲得しています。

 残念ながら決勝ではリタイアに終わっていますが、ベルコウエスト759のデビュー戦としては十分に速さを見せつけた格好です。そして同年9月の鈴鹿グレート20ドライバーズレースのFL500チャンピオンレースで初優勝を飾ると、シリーズ最終戦となった11月のJAFグランプリ・レースのFL500チャンピオンレースでは2連勝。見事シリーズチャンピオンを獲得しています。

 さらに年が明けた1976年1月のガーネット鈴鹿200kmレースのFL500チャンピオンレースでも中嶋さんとベルコウエスト759は勝って3連勝を飾り、そのポテンシャルを嫌というほど見せつけることになりました。

 この1976年にはシャシーはそのままにウイングノーズをスポーツカーノーズにコンバートしたベルコウエスト769が登場していますが、シャシーを一新した後継モデルのベルコウエスト779は1977年にプロトタイプの779Xを経てデビューしています。車名についてはデビューシーズンの西暦の下二けた+車両カテゴリーで表されていて759は1975年のグループ9(フォーミュラ・リブレ)を表していました。

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