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童夢が開発した「ハヤシ712」が関東「ファルコン」勢から覇権を奪取! ドライバーは中野信治選手の父・中野常治選手でした

トップスピードに優れた712だが、前面投影面積は決して小さくないから空気抵抗係数が優れていたのだろう

改良を重ね勝つマシンに進化した

 国内レース界では1970年代に、F2000を頂点とするフォーミュラカーのピラミッドが出来上がっていました。その最も下段に位置していたカテゴリーがFL500で、軽自動車のエンジンを搭載し、ナリは小さいもののバトルの激しさと、その技術レベルの高さでは、まさに“ミニF1”と呼ぶにふさわしいものがありました。そんなFL500マシンを紹介するシリーズの第3回は関東勢のファルコン77Aから覇権を取り戻したハヤシ712です。

群雄割拠のなかで発生した“ファルコン・マジック”

 1970年代に入って急激なブームを巻き起こしたFL500。そのトップシリーズとされた鈴鹿サーキットのFL500チャンピオンレースでは、大阪に本拠を置くハヤシカーショップ/ハヤシレーシングと関東の雄、鈴木板金(ベルコ)の2トップが活躍。それに加えて鴻池スピード(KS)、ベルコウエスト、マルチといった鈴鹿勢や、京都に本拠を構える小嶋エンジニアリング(KE)など数多くのトップコンテンダーがひしめき合うバトルが展開されていました。こうした群雄割拠に一石を投じることになったのが、横浜に本拠を構えていたRSワタナベ(ファルコン)でした。

 1977年シーズン用に製作されたファルコン77Aは、スポーツカーノーズに幅広なサイドポンツーン、そしてエンジンをフルカバーするリヤカウルを装着し、それまでのスリークだったFL500のトレンドを一新することになりました。

 前面投影面積は決して小さくなかったのですが、空気抵抗係数が小さかったのでしょうか、ストレートでのトップスピードが速く、これが大きなアドバンテージになりました。1977年はハヤシ711Bを駆った畑川 治選手が鈴鹿のFL500チャンピオンに輝いていますが、翌1978年には飯田 武選手が覇権を奪っていました。この年、ライバル勢は飯田/ファルコン77Aの速さにお手上げ状態で、“ファルコン・ショック”なるフレーズがモータースポーツ専門誌のレースレポートには何度となく登場することになったのです。

 そんな“ファルコン・ショック”に立ち向かうことになったハヤシカーショップ/ハヤシレーシングのニューマシンが、今回の主人公となるハヤシ712でした。1972年にリリースして大ヒットとなった706Aに続いて、1974年には初のモノコックフレームを採用して商品性を大きく向上させた709を投入。

 ハヤシは、ともに30台を超える販売台数を記録し、鈴鹿でもチャンピオンを獲得するなど成功作が続いていましたが、1976年にリリースした711では苦戦を強いられてしまいました。スリークなノーズにリップスポイラーを設けたデザインが空力的に厳しかったのか、トップスピードでライバルに後れを取ってしまい、販売台数でもわずか4台に留まってしまったのです。

 翌1977年にはスポーツカーノーズにコンバートした711Bを投入し、先にふれたように畑川選手が覇権を取り戻していましたが、販売台数的には711に続いてこちらもわずか4台と大苦戦してしまいました。そこでハヤシでは1978年シーズンに向けてブランニューの新型マシンの開発を進めることになりました。

 林 将一さんは、従弟の林みのるさんが創設し、ハヤシカーショップの2階に“間借り”しながらスポーツカーやレーシングカーを製作していた童夢に、開発を委託したのです。ただし、のちにF1GPマシンなども手掛けることになる童夢も、この時点ではレーシングカーの開発は手掛けたことがなく、苦戦することになってしまいました。

 何よりも最先端の技術として、モノコックにアルミのハニカムパネルを採用していたのが大きなエポックとなったのですが、やはりノウハウが足りなかったようで、強固なモノコックを構成することができなかったようです。そして空力に関しても当時トップだったファルコン77Aに対して後れを取っていきました。

プロトタイプから現場で手直しを続け“ハヤシ・マジック”が実現

 それまでハヤシカーショップ/ハヤシレーシングではマシンの開発を内製で進めてきました。そのため712で初めて外部(とはいっても童夢には林 将一さんも関わっていたのですが)に委託することになったのですが、もうひとつ体制変更というか、体制強化されたニュースがありました。

 これまでのレーシングカーがすべて、東大阪にあるハヤシカーショップのワークショップで製作されていたのに対して、712以降は鈴鹿サーキットに程近いエリアに新設されたハヤシレーシングの新たなワークショップ(というよりもファクトリーと呼ぶにふさわしいスペースが確保されたモダンなガレージでした)で製作されるようになったこと。

 鈴鹿サーキットでは至近距離の好立地だったことから設計変更したマシンをサーキットでテストし、ワークショップに戻ってテスト結果を分析し、さらに改良を加える。この繰り返しが簡単に実践できたことは大きかったようです。

 これを繰り返しながら、712はプロトタイプから量販モデルへと進化していきます。こうしたバックグラウンドの状況を説明したうえで、712のメカニズムについて紹介しておきましょう。ハヤシ712は、3/4モノコックの後方に、エンジンを搭載するためにパイプでサブフレームを組んだハイブリッドシャシーです。

 これだけ見ると、従来のモデルと同じようなシャシーをイメージするかもしれませんが、モノコックが、アルミパネルを使ったツインチューブではなく、アルミ箔で成形したハニカムをアルミパネルでサンドイッチ構造とした、アルミのハニカムパネルによるモノコックを採用。

 プロトタイプで苦労したことへの反省から、ハニカムパネルのアウターにアルミの補強パネルを追加しており、シャシー剛性は十分すぎるほどに高まっていました。サスペンション形式は前後ともにダブルウィッシュボーン式でした。

 フロントはハヤシのFLとしては初めてロッキングアームを使ったインボード式で、ダンパーにはオリジナルで開発した『ストリートショック』を使用していました。またカウルワークとしてはスポーツカーノーズにワイドなサイドポンツーン、などはファルコン77Aと似たコンセプトでしたが、サイドポンツーンの後半から垂直に立ち上げたサイドウォールでリヤウイングをマウントする、新たなコンセプトでまとめられています。林 将一さんも「712は2秒のタイムアップを狙って開発されたマシンで、開発するのに時間はかかるけれど、開発が進めばきっと速くなると信じていた」と話していました。

 1977年シーズンから速さを見せつけていたファルコン77Aは、1978年シーズンには鈴鹿で飯田選手がチャンピオンに輝き“ファルコン・ショック”を巻き起こしたことは先に触れたとおり。これに対応すべく投入されたハヤシ712は当初、苦戦することになりましたが改良を重ね、1978年シーズン中盤にはライバルを上まわるポテンシャルを発揮。

 9月のグレート20レースと11月のJAF鈴鹿グランプリ、シーズン終盤の2戦では中本憲吾選手が圧倒的な速さでFL500チャンピオンレースを2連勝。チャンピオンこそ飯田選手に奪われてしまいましたが、中本選手は2戦連続してポールtoウィンを飾るとともに、鈴鹿グランプリでは従来のコースレコードを1秒以上も更新するスーパーラップでニューレコードをマークしています。

 優勝請負人としてハヤシに請われた中本選手ですが、最初の2レースでは完敗を喫していました。しかしグレード20では堂々の変身ぶりを見せつけて、パドックでは“ハヤシ・マジック”なるフレーズが生まれることになりました。

 そして翌1979年には、中本選手に代わってハヤシレーシングのワークスドライバーに抜擢された中野常治選手(F1GPやCARTで活躍した中野信治選手の父)が、見事に鈴鹿チャンピオンとなりファルコンから覇権を奪還することになりました。販売台数も32台を数えています。

 ただし、この話にはさらに新たな展開が待っていました。関西/鈴鹿勢のハヤシに、完膚なきまでに敗れてしまったRSワタナベ(ファルコン)が再度の逆転劇を狙って新型車両、ファルコン80Aを投入することになったのです。

 77Aで空力のひとつの完成形を導き出したファルコンが、また新たなトライを実践してきたのですが、その設計開発思想、そして攻守所を変えたバトルについては次回に続きます。

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