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街にはじつは使いにくい「バリアフリーもどき」が散見! 本当に社会が必要とするものとは

クルマ社会の物理的、精神的障害とは

 バリアフリーとは、社会生活をするうえで支障となるような物理的、また精神的な障害を取り除くことをいう。ここから、障害を持つ人や高齢者にも快適に生活できる社会環境を整えようとする活動につながっている。日本では、どのような動きと現状があるのだろうか。

数センチの段差が障害となる

 クルマに関連した例でもっとも目につきやすいのは、車椅子でも乗降しやすく、またトイレに近い場所に駐車できるようにしたサービスエリア(SA)や、パーキングエリア(PA)での、駐車場の配置やつくりだ。クルマを止める場所の左右の幅が広くとってあり、ドアを大きく開けて座席から車椅子への乗り換えをしやすくしている。あるいは、そこからトイレまでの道筋の段差をなくすようにゆるやかな傾斜が設けられている。


 東京オリンピック・パラリンピックの開催へ向け、全国各地でバリアフリーへ向けた施設などの整備が進められてきた。しかし、過去に実施された施設も含め全体を見ると、必ずしもまだ万全でないといった様子がある。


 たとえばスロープの角度がややきつい例があったり、なだらかにスロープにつながっているように見えて、歩道と車道の境に段差がまだ残っていたりする場合がある。

 あるいは路面の舗装が様々で、凹凸ができたままなかなか補修されないところもある。

 そして、自力で車椅子を利用する場合は、介護者に押してもらう場合以上にスロープの角度が緩くないと上り下りできないにもかかわらず、ただスロープになっていればいいだろうといった例もある。さらに、登ることばかり注目されがちだが、実は降りが危ない。自力でも登れる角度は、5度といわれる。


 そうした改良工事を行う期間、工事の工程を優先するあまり車椅子では通れなくなっている場合もある。それは、目の不自由な人のための点字ブロックについてもいえる。途中で途切れていたり、右側通行や左側通行が交差し、健常者と接触する危険を放置していたりする例もある。


 東京オリンピックやパラリンピックのような行事をきっかけに、バリアフリー化が進み、改善されていくことはよいが、逆に成熟した社会を目指すのであれば、一時的な隆盛ではなく、継続的なバリアフリー社会づくりの発想が必要だろう。

 バリアフリーを進めようとしながら、なぜ、上記のような至らぬ設置の仕方や工事の進め方になってしまうのか?。日本は大都市に多くの人が済み、人口密度が高いため、物理的に最適なバリアフリーの場所が確保できないといった実態もあるだろう。


 しかし根本的な問題は、日本人の意識、心の問題である。一例をあげれば、電車に設けられた優先席という発想自体、おかしなものだ。もちろん、車椅子で乗車した際に落ち着ける座席のない場所を設ける工夫は必要だが、体の不自由な人や高齢者へ席を譲ることは、優先席でなくても当たり前に行われることこそが、成熟した社会意識である。

 

バリアフリーはみんなのため 

 優先席に、若い人が腰かけていると白い目で見たり、優先席が空いているのに若い人が座れない心持になったりすることの方が不自然だ。逆に、優先席に座りながらぐっすり寝込んでいるのも、無神経といわざるを得ない。公共の場という意識の欠如だ。


 本来であれば、どの席でも空いていれば自由に座ってよく、多少の居眠りはしても、気配を感じたら目を開け、障害のある人や高齢者、妊娠した女性などが居たら躊躇せず席を立って譲るべきだろう。譲られた人も、まだ自分は若いと思っても「ありがとう」といって座ればよい。すぐ降りるのであれば、そういって断ればよい。

 こうした教えは、子供のころの躾によって身に着く習慣だ。日本は、ことに戦時中に偏った全体主義的な教えから戦後に個人主義へと大きく振れ、個人が自由に生きる権利だけが取り上げられてきた。しかし、自由に生きるには、義務も同じように付随してくるのが社会であり、そこを両輪として教えられずに来た不幸がある。

 自分勝手に生き、周りの人々が不幸になったのでは、本末転倒だ。自己実現を目指すなら、周りの人々と快適に暮らせることが前提であり、それなくして自己実現はあり得ないのである。古くから「情けは人の為ならず」の言葉がある。これは、人に情けを掛けるのは、人助けをする意味だけでなく、いずれ自分も人に助けられるようになることをいっている。

 その視点に立てば、バリアフリーの施設の設置では、障害を持つ人や高齢者の気持ちになって、単に一つの施設や工事の改善にとどまらず、利用する際に不便が無いかまで広く考える目線が生まれるはずである。のちに自分が歳を重ねたとき、そうした施設や社会であることの有難味を実感するだろう。


 欧米では、戦後もそうした教育が続けられているので、当たり前のように席を譲るし、車椅子で乗車する場所が設けられていない車内であれば、人が場所を移動して余裕をつくる。それは、ベビーカーを伴う親が乗車しても同じだ。駐車場では、車椅子の場所が空いていなくても、周りにいる人が自分のクルマを移動させたり、乗降を手伝ったりする。だから、必ずしもバリアフリーの施設づくりが十分でなくても、人が助け合い、補っている。


 トヨタで福祉車両を開発する責任者は「福祉車両をいくら充実させても、事足りるということはありません。あわせて、世の中の人々が互いに助け合い、自然に手を差し伸べる社会になってもらうことを願います」と語る。

 実は、物づくり、箱物づくりより、日本人の他人を思う心の広さ、心のバリアフリーが先なのだと思う。

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