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無敵の「R32GT-R」が登場するまで日本で大暴れ! マイナー車種「フォード・シエラ」の知られざる伝説

日本のサーキットでも大暴れしたマシン

 アメリカの巨大自動車会社フォードが、ヨーロッパ進出をもくろんだのは1960年代のことだった。イギリスとドイツに拠点を置き、ヨーロッパのモータリゼーションに密着した車両の開発、生産を始めていた。

 1982年にデビューしたフォード・シエラは、それまでのコルチナ、タウナスの後継モデルとして企画され、エアロダイナミクスなデザインを取り入れたミッドサイズカーとして作られていた。基本的には新世代ファミリーカーの位置付けとなり、いかにもヨーロッパのモータリゼーションを反映した車両企画らしく、1.3リッターから2.3リッターまで広範なエンジン排気量が設定されていた。

 ヨーロッパ・フォードは、設立時の経緯からも分かるように、歴史的にモーターレーシングに対して積極的なところがあり、ツーリングカーレース、ラリーと自社生産の車両で参戦可能なカテゴリーに深く関わっていた。

 1982年に始まるグループA規定のツーリングカーレースに関しても同様で、当時の最高峰シリーズとなるETC(ヨーロッパ・ツーリングカー・チャンピオンシップ)には、当初カプリで参戦したが戦闘力不足は明らかで、すぐさま最小排気量クラスのディビジョン1に鞍替えし、エスコートRS1600で実績を残すことに成功。

 しかし、総合順位を争う最大排気量クラスのディビジョン3は捨てがたかったようで、1986年、シエラ・シリーズ中のスポーツモデル、XR4(直4、2.3リッターターボ)をグループA規定のETC戦に投入した。

 当時はボルボ240TCやローバー・ビテス、BMW635CSiが全盛の時代で、XR4は、個体としてはよく出来ていたものの、ディビジョン3で主導権を握るまでのポテンシャルはなく、フォードに新たなグループA対策モデルの開発を決断させていた。

コスワースエンジンを搭載した本気マシンを開発

 このグループA対策のシエラが、1986年にリリースされた「シエラRSコスワース」だ。

 コスワース製2リッター4バルブDOHCにターボチャージャーを装着したパワフルなエンジンを持ち、車体各部も生産車の段階からレース対策を施すグループAベースモデルとして作られ、1987年のWTC(世界ツーリングカーチャンピオンシップ)に投入された。

 ヨーロッパでのツーリングカー選手権は、長らくヨーロッパ選手権が最高峰で、世界選手権のタイトルが冠せられることはなかったのだが、FIAは1987年にヨーロッパの主要サーキット戦に、オーストラリア、ニュージーランド、日本(富士インターTEC)を加えたツーリングカー世界選手権を規定した。これまでのETCも併存したが、主要メンバーはWTCに移行し、実質的にETCの拡大発展版と解釈できるシリーズとなっていた。

 フォードはこのWTCにシエラRSコスワースを投入。実際の車両開発、レース運営を担当したのはスイスのエッゲンバーガーで、すでにボルボ240TC(1985年)の成功によりその手腕、実力は高く評価されていた。

 シエラRSコスワースも同様に成功しつつあったが、同年の第6戦、チェコスロバキアのブルノ戦から進化型のシエラRS500に車両を変更。RS500はエアロ対策(市販車からの改造不可)を重点的に行った車両でより戦闘力が高められ、デビュー戦となったブルノでは、いきなり優勝を飾る華々しい登場だった。

初優勝を挙げる戦闘力の高さを示していた

 日本では、JTC(全日本ツーリングカー選手権)が3シーズン目を迎えた段階で、全体の流れとしては三菱スタリオンターボとスカイラインRSターボが主導権を握り、トヨタ・スープラが新顔として登場する状況だったが、トランピオ・チームが3月の緒戦(西日本)からシエラRSコスワースを購入して投入。WTC以外では最もデリバーリーの早いシエラの1台で、6月の第2戦(西仙台)では2位、続く8月の第3戦(筑波)では初優勝を挙げる戦闘力の高さを示していた。

 さらに第5戦、WTCの1戦ともなった11月の富士インターTECでは、フォードワークスのシエラRS500が3台来日。黒地に赤のテキサコカラーが精悍な印象の車両で、実力どおりにクラウス・ルードビッヒ/クラウス・ニーツビーツ組が優勝を果たしたが、なんと2位にはワークス勢を退け、日本勢のトランピオ・シエラ、長坂尚樹/アンディ・ロウズ組が30秒差で食い込む健闘を見せていた。

 ちなみにこれ以外の日本車勢は、3周遅れ総合9位のスープラが最上位だったから、いかにシエラが強かったか推測できるだろう。

 ちなみにトランピオ・シエラ、このインターTECで車両をRS500に変更。続くJTC最終戦の鈴鹿戦でも優勝を果たし、長坂尚樹がシリーズタイトルを獲得した。

 こうしたシエラの強さを目の当たりにしたいくつかのプライベーターは、翌1988年シーズンからシエラ乗り替え、常に4〜5台が参戦する状態になっていた。

 この年はスカイラインGTS-Rが新たに参戦し、序盤2戦で優勝する活躍を見せたが、第3戦以降はシエラが4連勝を飾り、3勝を挙げた横島久がタイトルを獲得。

 翌1989年は、ワークス体制で臨むスカイラインGTS-Rとの一騎打ちになったが、さすがにワークスの力は侮りがたく、シリーズタイトルは長谷見昌弘のリーボックスカイラインが獲得する流れとなった。

 それでも、プライベーターがワークスと互角の勝負を展開できる車両としてフォード・シエラRS500は存在価値を持っていたが、1990年、スカイラインGT-Rが登場するにおよび、さすがに戦闘力差は鮮明となり、1台また1台とJTC戦から撤退。ちなみにヨーロッパでは、すでにグループA規定は終了。フォード・シエラの活躍の場は失われ、新たにクラス2ツーリングカー規定が始まろうとする時期だった。

 なお、JTC戦で活躍したフォード・シエラの大半はアンディ・ロウズ製で、ワークス仕様に準じるエッゲンバーガー製は、トランピオのほかあと1台が存在するのみだったと記憶する。

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