サイトアイコン AUTO MESSE WEB(オートメッセウェブ)

冷蔵庫はもちろん専用シャンパングラス収納まで! 「究極VIP」専用車マイバッハが豪華すぎる

メルセデス・ベンツの歴史はマイバッハの歴史でもある

 現在メルセデス・ベンツのサブブランドとして位置づけられ、その最高級モデルである「メルセデス・マイバッハ(MAYBACH)」。現行のマイバッハでこの名を初めて聞く人もいると思うが、特に戦前のヴィンテージカーの愛好家とって、このマイバッハというブランドは特別な意味を持っていると言える。

 そこでマイバッハブランドの生みの親である「ヴィルヘルム・マイバッハ」と「ゴットリーブ・ダイムラー」の深い絆と、「マイバッハ」ブランドの起源と代表車種、メルセデス・ベンツとの関係や現在のポジションにスポットを当て紹介しよう。

キャブレターの原型や現在のクルマの基礎を作る

 1886年、世界初のガソリン自動車の生みの親の一人であるゴットリーブ・ダイムラー(4輪車)のパートナーとして活躍した天才技術者こそがヴィルヘルム・マイバッハ。ゴットリーブ・ダイムラー(1834年ドイツのショーンドルフ生まれ、1900年没)が31歳の時、1865年にマイバッハとドイツ・ガスエンジン製造会社で出会った。

 その時のマイバッハは19歳(1846年ドイツのハイルブロン生まれ、1929年没)。彼の技術者としての造詣の深さに着目したゴットリーブ・ダイムラーは以後、自分の右腕にすると共に終生固い絆で結ばれた。ゴットリーブ・ダイムラーはヴィルヘルム・マイバッハの協力で、軽量・高回転エンジンの構想を大いに推し進める事ができたのだ。

ゴットリーブ・ダイムラ(左)とヴィルヘルム・マイバッハ(右)

 自動車エンジンの基本形となる4サイクルエンジン実用化のきっかけとなった「デコンプ装置」や「クロスヘッド」の技術は、このヴィルヘルム・マイバッハが発明したもの。さらに1892年、ガソリンエンジン技術の革命と言われた「霧吹き式気化器」を発明したのも彼であり、それがキャブレターの原型である。

 1890年には、ゴットリーブ・ダイムラーはヴィルヘルム・マイバッハと共に「ダイムラー・モトーレン社」を設立していた。そして1901年、初めてメルセデの名を冠した自動車が誕生する。その名は「メルセデス35PS」。それまでのエンジン付き馬車から、現在の自動車に近いスタイルと機能を備えた今日のクルマの祖先といえるものとなった。

 当時としては驚異的な性能を誇った「メルセデス35PS」の製作に技術貢献したのもヴィルヘルム・マイバッハである。フランスのニースに駐在するオーストリア・ハンガリー帝国の領事「エミール・イエリネック」が外交官であるとあると共に国際的なビジネスマンで「高性能なレーシングカーを製作して性能をアピールすべきだ」と新しい自動車の開発をダイムラー・モトーレン社に要請し、ヴィルヘルム・マイバッハが最初の「メルセデス35PS」を開発し完成させた。

 つまり、アルミニウムを多用する事で軽量化し、新開発のハニカム・ラジエーターで高性能車の冷却システム問題を解決。フロントエンジン、チェーン式後輪駆動、4速の前進ギアなどの最新技術を開発した。この「メルセデス35PS」の市販型はイエリネックがダイムラー・モトーレン社の総販売権を取得し、彼の愛娘・メルセデスの名前でオーストリア、ハンガリー、フランス、ベルギー、アメリカまで販売され、目覚ましい売れ行きを示した(ダイムラー・モトーレン社は1902年にメルセデスの名前を正式に商標登録した)。

超最高級車「マイバッハ」の誕生

 1900年にゴートリーブ・ダイムラーが他界するとヴィルヘルム・マイバッハは、1907年に息子のパウル・ダイムラーに会社を譲り、自らダイムラー社を去った。その後、マイバッハはあの巨大飛行船「ツェッペリン」のエンジンを製作するエンジン会社「マイバッハ・モトーレンバウ(Maybach Motorenbau GmbH)」を1909年に設立し、息子の「カール・マイバッハ」を技術主任に置いた。当初は飛行船「ツェッペリン号」に搭載するV型12気筒エンジンを製作していた。しかしマイバッハ親子は自動車に興味を決して失っていなかった。

 1918年の第一次世界大戦の終結から数年間、ドイツでは航空機や飛行船のエンジン製造が禁止され、需要縮小した事からマイバッハは自動車生産を始めた。父親の才能を受け継ぎ天才エンジニアとなったカール・マイバッハは1919年、メルセデスのシャーシに自社製の5.7L 直列6気筒を搭載したプロトタイプ「W1」を完成させた。

 その2年後の1921年には、初の市販モデル「W3」をベルリン・モーターショーで発表する。独創的なペダル操作の2速ギアボックスで運転の省力化をし、当時としては贅沢な4輪ブレーキも搭載。マイバッハが最初から高級車を目指していた事は明白で、その名声を確固たるものにしたのが1929年に発表した「マイバッハ12」だ。つまり、飛行船用エンジンをベースにした7L V型12気筒エンジンをすでに搭載した最高級モデルであった。12気筒マイバッハの総生産数は183台。当時12気筒エンジンを搭載した自動車は世界で「ロールス・ロイス」、「イスパノ・スイザ」、「ホルヒ」の3台で、メルセデスですらまだ試作段階でだった。そして1930年には「ツェッペリンDS7」と改名され世界最高級車として君臨した。

 1931年にV型12気筒エンジンの排気量を8Lに拡大した「ツェッペリンDS8」を発表。DSのドイツ語の意味は「Doppel Sechs=ダブル・シックス」。エンブレムである「ダブルM」は先述の「Maybach Motorenbau GmbH」の頭文字を冠したもので、マイバッハは世界の王室、上流階級、セレブ達に愛用された。

 その例を挙げると、エチオピア皇帝、ギリシャ国王、オランダ女王、インドの「マハラジャ・パティアーラ王」、「ロバート・ボッシュ」や「ヴェルナー・フォン・ジーメンス」といった産業界の大御所まで…まさしく世界の上流階級に愛用された超高級車だ。

 しかし、第2次世界大戦が激化した1941年には乗用車の生産をストップ。20年間での生産台数は1800台ほどに過ぎなかった。終戦後もマイバッハは乗用車の生産を再開することなく、「MTU(Motoren und Turbinen Union)」と社名を変更し、船舶や鉄道用の大型ディーゼルエンジン製造に専念。1960年に当時のダイムラー・ベンツ社がMTUの筆頭株主になり、1966年にMTUはダイムラー・ベンツ社の大型エンジン部門と合併した。

約60年ぶりに「マイバッハ」が復活

 1941年にマイバッハが眠りについてから約60年後の2002年7月2日、遂に超高級車マイバッハが復活する。世界初の公開場所となったのはニューヨークだが、すでに1997年秋の東京モーターショーで「メルセデス・ベンツ・マイバッハ」と名づけられたプロトタイプが登場したのは周知のとおりだ。ボディは当初2種類あり、全長が5.723mmの「マイバッハ57」と、全長が6.165mmの「マイバッハ62」。つまり、モデル名は全長から由来している。エンジンはガソリンのV型12気筒で、排気量は5700cc。これに左右Vバンクそれぞれにターボチャジャーを備え、最高出力は550psを発揮。「メルセデス・アドバンスド・デザインセンター・ジャパン」の代表作としても有名だ。

 そして2005年秋にはダイナミックな「57S」、2006年には「62S」が最高峰モデルとして追加。この「S」はスポーティのSではなく、スペシャルの意味。メルセデスAMG社から技術供与され、「One man One engine」のポリシーに基いてハンドメイドされる専用の6L V型12気筒ツインターボエンジンを搭載し612psを誇り、強化サスペンションを採用していた。

 以前のマイバッハ同様に細部にわたってユーザーの希望に沿って受注生産され、1台1台手作業で造られた。日本では2002年9月17日からオーダーの受付が開始された。ユニークなのはその販売方法だ。商談から受注、納車、サポートのすべては「パーソナル・リエゾン・マネージャー」が専任で対応。世界で50名が在籍し、うち4名が日本国内のマイバッハ専任マネージャーだったと記憶している。日本での販売台数は、これまでわずか150台程度と言われている。

完全なオーダーメイドのクルマづくりを貫いた

 マイバッハにはいわゆる標準仕様は存在しない。専用ボディカラーは17色あり、単色のほか2トーンも注文できた。内装もチェリーやウォールナットのほか、エキゾチックなアンボナイトも選べるウッドトリムは3種。そして最高級のグランドナッパレザーを中心にしたシート生地が6色と、多種多様な選択肢が用意された。

 東京(六本木)など世界の主要都市に配置された当時のマイバッハセンターでは、内外装のサンプルを手に取って確認し、さらにカーデモンストレーターで完成車のイメージをじっくり確かめる事もできた。優雅さを演出する各種オプションを加えれば、世界で唯一のマイバッハが完成した。

 注文を受けたマイバッハはドイツ本国・ジンデルフィンゲンの専用工場「マイバッハ・マニュファクチュアー」で熟練したマイスターの手によって生産される。当時、1台が完成までに約8カ月の期間を要するマイバッハは、約330人の職人が1日平均5台ペースで生産。特筆は1920年から続くクルマ造りの伝統が変わっていない事だ。

 さて、気になるインテリアは鏡のように磨かれたウッドパネルと最高級グランドナッパレザーの組み合わせで、精巧かつ豪華な室内装飾は熟練した職人達の手造りで仕上げられた。ドアライニング中心の短起毛のヌパックレザーとも相まって、マイバッハに乗る喜びを肌で感じとることができる。

 1台のマイバッハには、じつに8種類の最高級レザーが使用され、各部分にマッチした傷の無い最高品質の素材を、色調や表面の風合いを確かめながらステッチひとつひとつまで熟練工の手により入念に縫い合わせていく。「マイバッハ62」のルーフに、日本の障子をイメージした格子状の「液晶調光パノラミックガラスサンルーフ」が装備されたことも話題となった。

 3825mmのホイールベースを存分に活かした広々した空間にゆったりと配置されたフルサポートリクライニングシートに座ると、まずウッドとクロームが織りなす精緻な室内装飾に目を奪われる。特にキャビンの周囲を約5.6mにわたって取り巻くルーバー状のトリムは圧巻だ。20の作業工程と63層に及ぶ表面仕上げが施されたトリムはリアクオーターからダッシュボードへ、そして再びリアクオーターへと、芸術的なカーブを描きながら続く。

 リアシートにはさまざまな装備が用意された。携帯電話、600W出力を備えた専用設計のBOSEサウンドシステムやDVDなどのエンターテイメント。キャビネットのクーラーボックス内には冷えたシャンパンが、そして銀製のシャンパングラスとコップが用意された。オーナーだけが手にすることができる万年筆とボールペンセットはダンヒル製でマイバッハのロゴが入る。

 当時の日本での販売価格は約4100万円からで、最高級のオーダーメイドプランを組むと約1億円にもなると言われた。しかし2011年11月にダイムラー社は、2013年までにこの最高級車であるマイバッハブランドを廃止すると発表した。それまでの約10年間にわたり、ロールス・ロイスやベントレーに匹敵する超高級車の生産に力を注いだが、期待どおりの利益を出せなかったと言われている。

メルセデス・ベンツのサブブランドとして再始動

 2015年マイバッハはメルセデス・ベンツのサブブランドとなり「メルセデス・マイバッハ」として新しく生まれ変わった。Sクラスをベースに開発されたこの最新モデルは、Sクラス・ロングに対し約200mmホイールベースを延長し、3365mmと最高峰に相応しいモデルとなっている(全長5465mm×全幅1915mm×全高1495mm)。

 なお、サブブランド化に際し、ボンネットにはスリーポインテッドスターが装着され、マイバッハのエンブレムはCピラーに配置。しかもCピラーにも小さな窓を設置した「6ライトウインドウ」のスタイルを採用。

 エンジンはメルセデス・マイバッハS560/S560 4MATICに搭載される4.0L DOHC V型8気筒ツインターボ(469ps)と、メルセデス・マイバッハS650に搭載される6.0L DOHC V型12気筒ツインターボ(630ps)が用意されている。

 ボディカラーは個性を豊かに表現する標準色で10種類、さらにオプションでエレガントな2トーンの9種類から選択可能となっている。インテリア装備が豊富で、マイバッハの象徴するフロント&リアセンターアームレストに施された伝統の「マイバッハクレスト」のエンボス、ダッシュボード中央に埋め込まれた「IWC」アナログ時計のインデックスは、職人の手によって研磨と塗装が施されている。

 「Burmester(ブルメスター)ハイエンド3Dサラウンド・サウンドシステム」では、起動時に回転しながらせり出す専用デザインの照明付きツイーターが、最高のクオリティを表現する。さらに「エアバランスパッケージ(空気清浄機能、パフュームアトマイザー付)」のフレグランスに、マイバッハ専用の香り「AGARWOOD(アガーウッド)」を設定。

 ドイツの銀器メーカー「ROBBE&BERKING(ロベ&バーキング)社」製シルバーのシャンパングラスまで用意(内装装備は各パッケージオプション)。内張りカラーは標準で6種類、エレガントなデジーノスタイルパッケージで3種類と合計9種類から選択可能だ。

 創業以来、伝統の最高水準の技術と品質、特別オーダーによる贅沢なデザイン、完璧なまでのクラフトマンシップでクルマ造りをしてきたマイバッハ。「超高級車の芸術作品」と言われる所以がそこにある。

モバイルバージョンを終了