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日産ファンなら知っておきたい! ニスモは「いつ」「どうやって」生まれたのか

「NISMO」36年間の歩みを振り返る

 日産自動車のモータースポーツ担当部署として知られるNISMO(ニスモ)。正式名称はNISSAN MOTORSPORTS INTERNATINAL(ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル)。日産自動車の傘下にあり、独立した株式会社として日産車によるモータースポーツ活動(車両、パーツの開発、レース参戦、モータースポーツの育成など)を行っている企業だ。1984年9月の設立から今年で36年。その歴史と功績を振り返ってみよう。

日産のモータースポーツを支えた「追浜」と「大森分室」

 NISMOの設立は、1960年代・70年代の日本のレースを知る人にとっては、ある種衝撃的、革新的な出来事だったかもしれない。それまで日産のレース体系と言えば、メーカー直系のワークス(その本拠所在地から「追浜」と呼ばれた)と販売系(宣伝部統括、本拠所在地から「大森」「大森分室」、あるいは所属部署から「宣伝4課」「宣伝3課」と呼ばれた)の2系統から成っていた。

 振り返れば日本のモーターレーシングは、1970年代に大きな社会問題となった自動車排出ガスによる大気汚染に取り組むため、メーカー各社はその対策に全企業力を傾注する事態となり、国内のモータースポーツ活動は封印(自主的な措置)される経緯をたどることになった。いわゆる活動休止で、これに伴い各社のモータースポーツ部門も相次いで解散していた。

 日産でいえば1973年いっぱい(実質的には1972年)でワークスチーム(追浜)は解散。当時の日産ワークスは、日産系の第一特殊車両課(難波靖治課長)とプリンス系の第二特殊車両課(青地康雄課長)による構成で、高橋国光、北野元、黒沢元治、長谷見昌弘、都平健二らがドライバーとして契約していた。

 一方、販売系を軸とする大森分室も同様の歩みを見せたが、こちらは日産系レースユーザーに対するサポートの業務もあったため、完全にその機能を停止させることはなかった。大森契約のドライバーは、かつては黒沢、長谷見、都平も所属していたが、1970年代に入ると星野一義、歳森康師らが主力として活躍していた。

厳しい排ガス規制で活動は休止状態に

 実際、排出ガス対策は技術的なハードルが非常に高く、当時世界一厳しいといわれた「昭和53年排出ガス規制」をなんとか達成しようと、まさに企業の総力を結集した開発体制が取られ、モータースポーツに振り向ける余力は皆無だった。

 さらに、自動車の排出ガスが問題視されていた当時「ガソリンを無駄使いし、排出ガスは出し放題のレースとはなにごとか」という論調のマスコミによる非難もあり、仮に企業に余力があったとしても、社会的に自動車メーカーがモータースポーツに参画することは許されない状況にあった。

 その風向きを変えられたのは1970年代終盤のこと。難関だった排出ガス規制の達成に成功すると、自動車メーカーは大手を振ってモータースポーツに参画できる環境となったのである。しかし、当時の日本のモータースポーツは、プライベーター主体の「F2」や「GC(グランチャンピオン)」しか存在せず、自動車メーカーの規模や技術力を必要とするカテゴリーはなかったのである。

モータースポーツの再始動と「NISMO」の設立

 NISMOが誕生したのはまさにこうした時代で、日産は1979年に始まるシルエットフォーミュラ(グループ5)に、追浜開発のターボエンジンを大森が窓口となって日産系有力プライベーター(長谷見昌弘、星野一義、柳田春人)に供給。はた目には日産チームと見えたが、実状は3つの組織によって構成され、結果的にプライベートチームごとに参戦活動を行う体制だったため、開発力、組織力、チーム運営などで不都合が多々あった。

 とくに1983年からメーカーの技術力が必要なグループCカーレース(全日本スポーツプロトタイプカー選手権=JSPC)が始まると、参戦組織の一元化は必要不可欠な要素となり、1984年9月、大森分室(宣伝3課)の所在地に日産自動車のレースカンパニー、NISMOが発足することになったわけである。大森が持つレース車両やパーツの開発能力、レース運営能力に、特殊車両課が持つエンジン開発能力を加えた組織体で、NISMOによって日産のレース活動は一元化されることになった。

 この1984年という時代背景は、翌1985年から新たな車両規定(グループA)による全日本ツーリングカー選手権の発足も決まっていただけに、メーカーとして本腰を入れてレースに取り組むためには、専門の組織体(企業)は必要不可欠だったのである。

 ちなみにNISMO創設後の日産のモータースポーツ戦績は、全日本ツーリングカー選手権(1986年=スカイラインRSターボ、1989年=スカイラインGTS-R、1990〜1993年=スカイラインGT-R)、全日本スポーツプロトタイプカー選手権(1990〜1992年=R90CP〜R92CP)、全日本ラリー選手権(1985年=フェアレディZ)と全日本選手権タイトルを相次いで獲得。

 1986年には60年代からの念願だったル・マン24時間にも参戦を開始。NISMOは日産モータースポーツの総本山として、名実ともに日本のモータスポーツ界を牽引するかたちで現在にいたっている。

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