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トヨタがWRCで勝つために作ったMR2ベースのミッドシップ4WD! 参戦が夢と消えた悲運の「222D」とは

打倒ランチアを目指して開発されたトヨタ222D

 世界ラリー選手権でモンスターマシンが驀進したグループBの時代(1982〜86年)。連続1年における生産台数が200台、うち車両規則に乗っ取った20台がエボリューションモデルで参戦マシンと認められていました。勝つためにあらゆる効果的技術システムが盛り込まれてゆく中、過度とも言える性能追求が進んでいきました。その最終的帰結となるはずだったグループSというカテゴリーが、次なる車両規則に構想されていました。まずはその流れから振り返ってみることにしましょう。

駆動力を余すところなく伝える4WDへ

 現代の世界ラリー選手権(WRC)で総合優勝を争っているWR(ワールドラリー)カークラスにおいて、各車に共通する技術的な必須アイテムとなっているのが4輪駆動(4WD)。これがWRCに初めて登場したのは1980年のサファリラリーで、SUBARU(当時は富士重工業)が持ち込んだレオーネ・スイングバックのグループ1仕様に搭載されていました。

 同じ頃、4WDに興味を持って開発を進めていたのがドイツのアウディでした。彼らは、当時のWRCで最上級クラスと位置付けられていたグループ4にこの技術を投入。1981年シーズンからアウディ・クーペをベースにしたグループ4仕様のアウディ・クワトロで本格参戦を始めると、デビュー戦となったモンテカルロではエースのハヌー・ミッコラがいきなり、幾つものセクションでトップタイムをマークして見せました。そしてこの時はリタイアに終わったものの、参戦2戦目となるスウェディッシュで早くも初優勝を飾っています。

 氷雪路のモンテカルロやスノーラリーのスウェディッシュでの活躍は、ある程度予想されていましたが、ターマック(舗装路)ラリーでも威力は衰えず、グラベル(非舗装路)とターマックがミックスした第10戦のサンレモ・ラリーでは女性ドライバーのミッシェル・ムートンが初優勝を飾りました。これにより総てのラリーで、たとえどんなコースコンディションであったとしても4WDの優位性が明らかになりました。

 そしてグループB車両が初導入となった翌82年シーズン、シーズンはグループ4との混走でしたが、ミッコラとムートンに加えてベテランのスティグ・ブロンキストを迎え入れたアウディは全12戦中半数以上の7勝をマークしてマニュファクチャラータイトルを獲得することになりました。ちなみに、これは4WD車両として初のチャンピオンマシンとして記録されています。

操作性に秀でたウエイトバランス もうひとつのミッドシップへ

 そんなアウディ・クワトロの前に立ちはだかったライバルがランチア・ラリー037でした。流麗なデザインで知られるランチア・ベータ・モンテカルロをベースにシャシー設計をジャン-パオロ・ダラーラが、エンジン開発をアバルトが担当。オール・イタリアで仕上げた渾身のモデルでした。

 デビューしたのは82年シーズンでしたが参戦2年目となった83年シーズンに猛威を振るうようになりました。アウディ・クワトロの武器が4WDであったのに対し、ランチャ・ラリー037の武器はミッドシップの後輪駆動というパッケージが生み出すドライバビリティ。実は、それ以前に参戦していたストラトスでも同様のパッケージを採用していましたが、その長所はそのままにストラトスでの過敏すぎたドライバビリティを修正したものでした。

 ランチアにとっては、4WDのアウディが得意とするステージでは何とかこれに食らいつき、ラリー037が得意なターマックの総てに勝利してシリーズを制する作戦でした。実際、ヴァルター・ロールとマルク・アレンのツートップで挑んだ83年のWRCでは10戦で5勝をマークしマニュファクチャラーチャンピオンに輝いています。それにしても4WDを開発するまでの“時間稼ぎ”に、こんな本格的かつ美しいマシンを投入するなどさすがランチアです。

 これがグループ4からグループBへの移行過程で繰り広げられたWRC史上に残る技術的な争いでしたが、4WDとミッドシップが、それぞれのメリットを武器に好バトルを繰り広げているなら、いっそこれを合わせたら…、と考えるのは必然。そして実際にプジョーがミッドシップ+4WDの205T16をリリースして王座を奪って見せると、ランチアもミッドシップに4WDをプラスしたデルタS4を投入。

 さらに国際自動車スポーツ連盟(FISA。1993年に世界自動車連盟=FIAに吸収され、現在では世界モータースポーツ評議会が業務を引き継いでいます)がグループBをさらに先鋭化させたグループSの競技車両プランを提示したことで、新たなミッドシップ+4WDも企画されるようになりました。以前紹介したアウディ・クワトロRS002もそんな1台でした。

 ここまで4WDvsミッドシップ後輪駆動の技術的論争と、をグループBからグループS(の構想)が誕生した時代背景を紹介してきましたが、ここからが今回の本論、トヨタが企画開発していたミッドシップ+4WDを紹介していくことにしましょう。

ミッドシップと4WD ふたつを併せ持つ「トヨタ・222D」

 カローラ(TE27。国内名はカローラ・レビン/スプリンター・トレノ)で国際ラリーへのチャレンジを開始したトヨタは、WRCが開催されるようになる前年の1972年に参戦車両をセリカ(TA22)に変えて本格参戦を開始しています。

 そして79年にはグループ4のセリカ(RA63)を投入。さらにセリカGT-TSをベースに、84年にはグループBのセリカ(TA64)を投入していますが、ここまですべてのモデルがフロントエンジンの後輪駆動でした。

 そして、アウディ・クワトロやランチア・ラリー037の活躍に刺激されたトヨタは、次なる主戦マシンとしてミッドシップ+4WDを開発することになったのです。それが今回の主役、MR2をベースにしたトヨタ・222Dです。

 当時のトヨタのラインナップで唯一のミッドシップだったMR2はカローラ(E80系)の4A-Gエンジンやトランスアクスル、フロントサスペンションを2座のコクピット後部に移設したパッケージ、これはフィアットのX1/9と同様の手法で仕立て上げられていました。

 当然、4A-Gエンジンは横置きに搭載されていましたが、222Dではまずエンジンを3S-GTEにコンバートすると同時にマウント方法も、ベースと同様の横置きに加えて縦置きもトライされることになりました。横置きマウントであれば全長/シャシー/ホイールベースをコンパクトにできるメリットがあり、その一方で縦置きマウントにすればドライバビリティにおいてシンメトリカルなメリットが考えられたからです。

 シャシーもコクピット部分を残してモノコックの前後部分を切り取り、新たにパイプフレームを組んで剛性を確保していましたが、リア部分をこうすることにによって、エンジンの横置きと縦置きに関しては、効率的に判断できるという狙いがあったのかもしれません。サスペンションもベースとなったMR2の前後ストラットから前後ダブルウィッシュボーンに変更されていました。タイヤが太くなる競技車両ではサスペンション・ジオメトリーの設計において自由度が高まるダブルウィッシュボーンが採用されれるケースが多いのですが、これもその一例となっていたのです。

 ベースとなったMR2の基本シルエットを残しながらも、トレッドを広げるとともにラリー用の太いタイヤを装着するために、前後のフェンダーを大きくフレアさせたあたりは、グループBのホモロゲーションを受けたセリカ(TA64)に通じるものがありました。角形の2灯式ヘッドライトに丸型の大径補助ランプを追加したフロントビューも同様の手法でしたが、ヘッドライトと補助ライトを1枚のカバーで覆うことによってフロントビューの印象はひと味違うものとなっていました。

ラリー運営の安全性に熟慮 メーカー参戦促進のグループS構想消える 

 こうして開発が続けられていた222Dですが、最前線でタイトル争奪が続いていたグループBマシンは競争激化によってより先鋭化され、性能は著しく向上、スピードが増すと同時に危険性も高まっていきました。もちろんFISAでは『安全性の強化』を謳うと同時に、さらにより多くの自動車メーカーに参加を促す目的もあって、グループS構想が発表されていったのでした。トヨタ222Dも当然のように、グループB仕様からグループS仕様へと転用されていったのです。ところが……。

 1986年のWRC第5戦となったツール・ド・コルスにおいて、ランチア・デルタS4のワークスカーをドライブしていた天才肌の若きエース、ヘンリ・トイボネンが競技中にクラッシュしてマシンが炎上。ナビゲーターのセルジオ・クレストとともに死亡するアクシデントが発生。FISAは直ちに「グループBの廃止(ホモロゲーション申請の受付中止)と翌87年からはWRCをグループAで戦う」ことを発表。当然のようにグループSの構想も立ち消えとなってしまいました。

 仕様の異なる2台が現存すると言われている222Dですが、2016年に都内はお台場にある「MEGA WEB」において開催された特別企画展で白い1台と遭遇しました。歴代のセリカやカローラ、ヤリスなどと比べるとスポンサーカラーが施されていない分、地味に映りますが、フレアして迫力を増したフェンダーや、パネルで覆われたライトが印象的なフロントビューなど、存在感は決して引けを取るものではなかったような気がします。

 その後グループA/WRカーへと活動をシフトしたトヨタはセリカ、カローラ、そしてヤリスとベースモデルを変更しながらチャレンジを続け、1990年にはST165型セリカでカルロス・サインツがドライバーチャンピオンに輝き、ST185型セリカにスイッチした92年にはサインツが2度目のチャンピオンに輝いています。そして翌93年には日本車として初のマニュファクチャラーチャンピオンに輝くことになりました。222Dは、実戦参加こそかないませんでしたが、そこでトライした技術をベースに、フルタイム4WDを鍛え上げたトヨタは、こうして栄光の座にたどり着いたのです。

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