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「段ボール」ではなく「綿」製ボディだった! 旧東ドイツの珍車「トラバント」伝説

振り返れば、旧東ドイツの工業レベルの高さには驚かされるばかり

 東西の冷戦が終結し、東西ドイツが再統一され、ベルリンの壁も解体されることになったのは1989年のことでした。そして旧東ドイツから、まるで打ち壊された壁を突き破るように、次から次へと旧西ドイツに流れ込んできたクルマ、それが“トラビ”の愛称で人気を博することになった旧東ドイツの国民車、トラバントでした。自動車世界の奥深い歴史の中での一コマ、トラビを振り返ってみました。

戦前からのドイツ自動車業界の編制のあらまし

 第二次世界大戦が終了し敗戦国となったドイツは、戦勝国である米・英・仏と新生・ソビエト連邦によって統治されることが決定、西側は米・英・仏が受け持ち、その一方で東側はソ連が受け持つことになり、結果的に東西に分割されることになりました。

 そして東ドイツとして分割されたエリアに誕生した自動車メーカーが、トラバントの生みの親でもあるVEBザクセンリンクでした。VEBというのはVolkseigener Betrieb(独)を省略したもので和訳するなら人民公社ということになりますが、要するに東ドイツの国営企業です。現在のザクセン州(当時はカール=マルクス=シュタット県)のツヴィッカウにあった工場は、歴史を辿って行けば、敗戦国となった東西に分割される以前のドイツにおける民族系の大メーカー、アウトウニオンの高級車、ホルヒの生産工場でした。ですから歴史的にもとても由緒正しい工場であるとともに、当初から自動車生産に関しての工業技術が高かったことは言うまでもありません。

 ここでちょっと、アウトウニオンとホルヒについても触れておきましょう。1929年に始まった世界大恐慌のあおりを受けてドイツの経済も痛手を受けることになりました。そんな折も折、トップメーカーだったオペルがGMに買収され、またフォードが国内法人のドイツ・フォードを立ち上げるなど、当時のドイツメーカーにとって米資本は脅威の的となりました。そこで民族系メーカーの合従連衡が行われることになりました。そうして誕生したメーカー(グループ)がアウトウニオンでした。

 その中心となったのは、第一次大戦後にエンジン製造からオートバイメーカーを経て4輪に進出したDKWでした。DKNは4輪に進出した直後に、まずは経営難に陥っていたアウディを傘下に収めると、続いてはホルヒ、ヴァンダラーと次々に合併し、遂にはドイツで第2位の自動車メーカーとなったのです。ただしDKWが小型車を担当し、ヴァンダラーは中型車、アウディはアッパーミドル、そしてホルヒが大型のプレステージカーを担当することでアウトウニオンの4つのブランドが市場で競合することはありませんでした。ちなみに、ダイムラーとベンツが合併してダイムラー・ベンツが誕生したのも、ちょうどこの頃でした。

 大型のプレステージカーを担当していたホルヒのツヴィッカウ工場でしたが、敗戦国となってしまうと、さすがにそのマーケットは残されていませんでした。そこで戦前にDKWが生み出しヒット商品となっていたマイスタークラッセF8と実質的には変わるところのないIFA F8を生産。 マイスタークラッセF8/IFA F8は、DKWが1939年にリリースした前輪駆動の小型車で、彼らが得意としていた2ストロークの600㏄2気筒エンジンを搭載していました。このF8が50年には戦後モデルのF89に切り替わり、さらにF9に移行、アイゼナハの旧BMW工場に生産が移管されてEMW309と名を変えた後、ヴァルトブルクとして進化を続けていくことになります。 一方、F9がアイゼナハに移管された後、ツヴィッカウではその発展モデルとなったP70を生産することになりましたが、さらに新たな主力モデルとして開発されたのがトラバントの初代モデル、P50でした。ここから今回の主役、トラバントのヒストリーが始まっていったのです。

ボディはなんと段ボールではなく「綿」だった

 トラバントP50の最大の特徴は、FRP(繊維強化プラスチック=Fiber Reinforced Plastics)で成形されたボディを持っていたことです。一部では「ボディは段ボール紙で出来ていた」とも揶揄されていましたが、この表現は間違っています。FRPというのは、当時としては最先端の技術だったのです。

 ただ現在の常識では、FRPというとガラス繊維で強化されたプラスチックを思い浮かべるのが一般的ですが、P50に使用されていたFRPは植物性の繊維である綿でフェノール樹脂を強化したものでした。

 当時としては先端技術だったFRPを使用することになったのは、軽量化が追求されたからでした。というのも、開発要件の中に、「家族4人が乗れること」のほかに「車重600kg以下」、「燃費は5.5ℓ/100km以下(約18.2km/ℓ以上)」などが挙げられていて、軽量化は最も優先順位の高いテーマの一つだったのです。

 実際には目標にはわずかに届かず620kgとなってしまいましたが、それでも全長3375mm×全幅1500mm×全高1395mmという、現在の軽自動車ほどのクルマが620kgで仕上がっているのは驚きです。ちなみに、日本で最初に発売された“本格的”な軽乗用車はスズキのスズライトSFセダンでしたが3m×1.3mの旧軽規格でP50より2回り以上もコンパクトなボディでしたが車両重量は520kgだったことを考えれば、P50の凄さが分かります。

横置きFFエンジンにも先見の明があったトラバント

 搭載されていたエンジンは2ストローク500㏄の空冷2気筒で、これを横置きに搭載して前輪を駆動するという基本デザインでした。言ってみればDKWの戦前からあった前輪駆動車、F1の流れを汲むものでしたが、横置きエンジンで前輪を駆動するというスタイルは現在、大多数のクルマで使用されていることを考えるなら、その先見性の確かさには敬意を表するしかありません。

 ただし、こうして出来上がったP50ですが、市場からはさらに厳しいリクエストが出されることになりました。もっとパワーを、そしてもっとスペースを。これに応えるように開発が行われP50のエンジン排気量を拡大した600ccのユニットを搭載したトラバント600(P60)が登場。さらに63年にはシャーシを一新したトラバント601(P601)が登場しています。

 この時のアップデートで最大の変更点はボディサイズの拡大でした。全幅については実質的な拡大はなかったのですが、全長が3375mmから3555mmに180mmも延長されるとともに全高も1395mmから1440mmへと45mm嵩上げされていて、居住スペースは随分拡げられていました。

 1963年に登場したトラバント601(P601)は1990年に生産が終了するまで、四半世紀を超える長期間に渡って生産が続けられました。総生産台数は280万台を超え、旧東ドイツ国内では日常風景に溶け込むほどポピュラーな存在になっていました。 この間、基本設計が変わることはありませんでしたが、細かな設計変更やアップデートは重ねられていました。エンジンなどはその典型で排気量も変えられていませんが、P60からP66まで7タイプが登場していました。しかし80年代から90年代にかけては世界的に、クルマの排気ガス浄化が求められた時代でした。そしてその要求に対応するには簡敏な2ストローク・エンジンでは無理がありました。

 そこで登場したのがトラバント1.1でした。これは提携していたVW社からポロ用の4ストロークの水冷1.1ℓ直列4気筒エンジンを調達して搭載したもので、他にもフロントブレーキをドラム式からディスク式に変更するとともに、サスペンションにもストラット式が採用されるなどシャーシもアップデートされていました。ただし、こうした改良によって価格が引き上げられてしまい、旧東ドイツの国内ではあまり多くは販売されず、生産台数も4万台弱にとどまりました。そしてそのほとんどがポーランドとハンガリーに輸出されていました。

小排気量クラスだが世界戦ラリーでも活躍

 トラバントは、モータースポーツで活躍したことでも記憶されています。P601にはラリー専用車両であるP800RSがラインアップされていました。これはエンジン排気量を800cc(正確には771cc)までスープアップし、最高出力も約65psにまで引き上げられていました。

 例えばグループAやWRカーまで製作して活動したシュコダのように、東欧のクルマがラリーに参戦するケースはそれほど珍しいケースではありませんが、トラバントの場合も、わずか3台に過ぎなかったのですがラリーの専用車両を製作し、実際に80年代後半の世界ラリー選手権(WRC)でグループA仕様が活躍した記録も残っています。 もっとも、排気量が800㏄に過ぎませんでしたから、活躍と言っても多くのファンの記憶に残るものではありませんでしたが、1986年シーズンからスポット参戦でフィンランドの1000湖ラリーに参戦を続け、毎年のように完走を果たしており、89年にはクラス2~4位入賞を果たしています。

 ちなみに、トラバントとは“遠い親戚”にあたるヴァルトブルクもグループAで参戦した記録が残っています。東欧諸国のクルマと最先端技術を争うWRCのイメージは、簡単には結び付かないかもしれませんが、実は古くから、根付いた活動を続けていたんですね。

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