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「XYVYX」ってなんて読むの? いくらなんでも奇抜過ぎた「国産不人気車」5選

この記事をまとめると

■豪華コラボで誕生するも大ヒットしなかったモデルも
■時代を先取りしすぎたのかも……
■輸入車を日本のメーカーがノックダウン生産した車種も

気が付いたら手が届かない価格に……

 数え切れないほどの種類があるクルマ。特に日本車はこれまでに生まれてきた車種が多いだけでなく、それぞれがフルモデルチェンジで世代を重ねているうえに、特徴的なグレードやボディバリエーション、限定車まで無数に存在する。

 その中にはクルマ好きからも忘れられかけている車種もある。今回はそんなクルマたちから、中古車市場や街中でも、まったくといっていいほど見かけなくなった「絶滅寸前」の5台を集めてみた。

憧れのイタリアンブランドで固めたホットハッチ【ダイハツ・シャレード デ・トマソ】

 ひと昔前は、セダンと並んで販売の主流だったハッチバック車。中でも、性能を高めスポイラーなどで装ったスポーティモデルは「ホットハッチ」「ボーイズレーサー」と呼ばれて人気を博した。ベース自体がリーズナブルで手軽なため、気軽にレーシーな雰囲気を楽しめることから、1980〜90年代には、国内外のさまざまなメーカーがホットハッチを発売していた。

 ホットハッチには、アルミホイールやハイグリップタイヤ、前後スポイラー、3本スポークのステアリング、ホールド性がよいシートなどが奢られ、ノーマルモデルと差をつけていたが、そのパーツ類も「ブランド」が重要で、イタリアン・ブランドも憧れの的だった。

 そんな時代真っ只中の1984年。ダイハツの2代目シャレードに追加されたのが、その名も「シャレード・ デ・トマソターボ」だった。80psを発生した1L直3SOHCターボエンジンは、ノーマルボディのグレードにも積まれており、最高出力は不変だったものの、スーパーカーブーム期に名を知らしめた「デ・トマソ」によるエアロチューン、カンパニョーロ製アルミホイール、ピレリP8タイヤ、モモ製本革巻ステアリングを装着。多くのクルマ好きを虜にした。

 3代目ではスキップされたデ・トマソバージョンは、1993年に登場の4代目で復活。このデ・トマソではターボを積まず、その代わりに1.6L直4SOHC(125ps)が搭載された。専用エアロパーツ&ホイール、専用メーター、レカロ製シート、ナルディ製本革巻ステアリングなどのバリューが高い装備は、このデ・トマソ版でも踏襲されていた。

 どちらのシャレード・デ・トマソも魅力的だが、すでにシャレード自体が絶滅危惧種という状態で、デ・トマソはさらにレアなモデルになっている。

いつまでも時代が追いつかない!? コンセプトが奇抜すぎる【ミラージュ・XYVYX(ザイビクス)】

 販売の花形だったハッチバック車には、スポーティ版から女性向け、上級モデル、営業向けの廉価グレードまでさまざまな仕様が存在した。1987年デビューの三菱「ミラージュ」3代目でも、性格の異なる4つのバージョンを設定。それが、女性向けでおしゃれな印象の「ファビオ」、ほどよくスポーティな「スイフト」、DOHCエンジンを搭載した高性能版「サイボーグ」、そしてこの「XYVYX(ザイビクス)」だった。

 ご覧のように、ザイビクスはリヤウインドウがボディカラーと同一、足元もスチールホイールのまま。車内も、低廉グレードのような質素なシートと内装で、しかも後部座席はなく、まるで2ドアバンのような出で立ちだった。というのも、サイビクスは豊富なオプションを用いて「自分好みのクルマに仕立てる」ことがコンセプトだったため。屋根後半に装着するカプセルにソニー製のAVキットを組み込めば、車内で映画を見ることもでき、9スピーカーのオーディオを奢れば、車内はリスニングルームになる……と謳われた。

 しかし、もともと車高が高くないふつうの3ドアハッチバックで、リヤシートを撤去して実用性も減少し、さらにリヤのスペースを活用するアイデア自体もさほどなく、トランスミッションは5速MTのみ。そのため、ザイビクスはまったくと言っていいほど売れず、約1年でカタログ落ちした。当時でも、街ゆくザイビクスを見て驚いた記憶がある。

 現在では、自分流にクルマを作っていくユーザーも多いため、ザイビクスはたしかに時代を先んじていたのだけれど、あまりにも発想が奇抜だった。いつかこのアイデアに時代が追いつく日がくるのだろうか。

現代のSUVブームの前身「都会派ライトクロカン」【ダイハツ・ロッキー(初代)】

 初代ダイハツ・ロッキーも、完全に絶滅危惧車種だ。中古車市場でも、もうほとんど見ることができなくなってしまった。

 ダイハツのロッキーといえば、販売が絶好調な1LクラスのコンパクトSUV。現在ではごく一般的になった、モノコックボディのFFハッチバック車を、ワイルドに装ったクロスオーバー車である。しかし、初代ロッキーは、ランドクルーザーやジープのような悪路に強いラダーフレームを備えた、本格的なRV(クロスカントリー車)だった。

 初代ロッキーのデビューは1990年。1970年代以降のレジャーブームも後押しして、RVにも乗用車のような快適性が求められ始めていたことから、1983年の「三菱・パジェロ」登場以降は、「スズキ・エスクード」や、このロッキーのように、オンロードや都市部での使用を前提とした車種が増えていた。しかしロッキーはあくまでも中身はハードなRV。外観は無骨で、車体後半が取り外せる仕様まであった。

 なお、とてもややこしいことに、海外では「ダイハツ・ラガー」をロッキーと呼んでいた。ラガーは、ジープさながらのワイルド&タフな4WDだった「ダイハツ・タフト」の後継で、快適性を備えたパジェロクラスのRVだった。そのタフトも、いまや軽のSUVとしてネーミングが復活。こちらも人気を博している。

夢、破れる……しかし残した遺産は大きい【日産・フォルクスワーゲン・サンタナ】

 自動車メーカーの歴史は、他社との吸収・合併・提携・再編などの繰り返しだ。その対象は国内だけでなく、海外のメーカーも含まれており、1970〜80年代にかけての日産も、海外戦略のためにアルファロメオやフォルクスワーゲンと提携を進めた結果、いくつかの協業車種を生み出している。

 フォルクスワーゲンからは、本国ドイツ(当時は西ドイツ)では5ドアハッチバックとワゴンしかなかった2代目「パサート」のセダン版だった「サンタナ」が供給されることになり、日産の座間工場で年間6万台ほどをノックダウン生産することを決定。1984年から日本での販売が開始された。なおパサートとデビュー時のサンタナは、ヘッドライトやグリル、バンパーの意匠が異なっていた(サンタナ後期型では、パサートと同じ顔になる)。

 もともとがフォルクスワーゲンのフラッグシップで装備も豊富、上級モデルでは5気筒エンジンも搭載していたサンタナ。同クラスの輸入車「アウディ80」よりもぐっと買いやすい価格に設定されていたものの、当時はまだ輸入車が今ほど受け入れられておらず、初期に頻発した「故障が多い」というイメージも拭えず、販売は低空飛行。1989年までに合計5万台ほどが売られたのみで、その生涯を終えた。それゆえ、サンタナも現在では、絶滅が危惧されるクルマである。

 確かに日産がこのクルマにかけていた期待に比し、結果はイマイチだった。しかし日産はサンタナで「ドイツ車のクルマ作りを学んだ」とされ、パッケージに優れ、極めて欧州色が強かった初代「プリメーラ」の開発に大きく寄与した。サンタナが残した遺産は大きかったのだ。

使用シーンが思い浮かばない? 2シーターの本格クロカン【スズキ X-90】

 1990年以降、各メーカーからは「試しに出してみよう」的な車種がたくさん登場。車種を削り、ニューモデルも売れ筋に絞られ、冒険が少なくなった現代とは大違いだ。でも、今考えてもいくらそんな時代だったとしても「これをどうして売ろうと思ったのか」というクルマが販売されていた(しかも何車種も)。スズキの「X-90」はその最たる一台かもしれない。 1995年から販売されたX-90は、なんと2シーターのRVだった。ベースはエスクードなので、シャーシはラダーフレームだったが、その上には丸っこくてオフロード車らしくないボディを載せていた。しかもルーフはTバー式で、外せば開放感は抜群。内装も乗用車ライクなものだった。

 しかし案の定、中身はRVだから悪路走破は得意、だけど性格はオンロード寄り、RVなのに2シーターで実用性は低い……という謎コンセプトが受け入れられることもなく、わずか2年ほどで販売を終了。その台数は1400台に満たないというのだから、当時から珍車だった。

 では、なぜ発売に踏み切ったのかというと、このクルマはもともとコンセプトカーで、展示したところ欧米での反応が良かったから。でもその欧米でもX-90は売れず(非情)、1998年頃には輸出を停止。メイン市場と見込んだアメリカでさえ、7000台ほどが販売されたに留まった。 そんなX-90は、もはや完全に絶滅種だ。イベントなどで見かけることも奇跡に近い。路上で見たら超ラッキー。きっといいことがあるに違いない。

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