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「竹ヤリ」「出っ歯」「バーフェン」! 昭和のクルマ好きが熱狂した「街道レーサー」とは何だったのか

若者たちが「走り回った」クルマでの驚異的自己主張

 1970〜80年代を席巻した狂気の街道レーサーたち。その当時を振り返ってみると「チバラキ仕様」と呼ばれたド派手なスタイルは近代アートのオブジェのようでもあった。“竹ヤリ”、“出っ歯”、“オバフェン”と称された改造は道路交通法を完全に無視したもので、日本における自動車の黒歴史でもある。今回はこの現象を振り返ると共に、なぜここまで大きなムーブメントになったのかを考えてみたい。

バイクからクルマへ移っていった時代

 当時の若者たちにとって“クルマ”はステータスであり、16歳で中型自動二輪免許(現在の普通二輪)を取得。バイクの楽しさを謳歌した後、18歳になると競うように自動車免許を取得し、クルマを手に入れることが当たり前の時代であった。16歳でバイクの楽しさ知ると言うことは「暴走族」への入り口であり、時代的に「不良=カッコイイ」という風潮が存在していた。しかし、当時の不良はファッション的な流行でもあり、その流れは単車(バイク)を卒業すると同時にクルマへとステップアップすることが「大人の階段」を登ることでもあった。

 バイクに夢中になった不良少年たち。大学へと進学する者は少数派であり、高校を卒業すると同時にクルマ関係の仕事に就く者も多かった。仲間内には必ずと言ってよいほど自動車ディーラーや自動車修理、板金塗装を生業とする友人や先輩が存在し、手に入れたクルマの面倒を見てくれた。そうなると、現在におけるカスタムの先駆けはDIYに近いものがあり、知恵と工夫を凝らしたオリジナルの“改造”が主流となっていく。その源流のひとつは、とりわけグラチャンのサポートイベントのマシン、スーパーシルエットから発したとも言える。

 また、そんな改造車の風潮を取り上げた雑誌も大きな影響力を持ち始め、ホリデーオート誌(モーターマガジン社)の企画であった「Oh! My 街道レーサー」への投稿や同時期に高い人気を得ていたヤングオート誌(芸文社)で紹介してもらうことが大きなステータスになっていた。そして、誌面に取り上げてもらいたいが故に競争心が刺激され、改造の手法はより派手に、より過激になって行く。

そうなると、通常のチンスポイラーやリヤスポイラーを装着しただけでは目立つことができず、過激さを競い合った結果、最終的には“出っ歯”と呼ばれる全長1mを越えるフロントスポイラーや大きなリヤスポイラー、“竹ヤリマフラー”を纏うようになったのである。

日本一のレーサーが決まるグラチャンの「駐車場詣で」

 その過激な姿を披露する聖地となったのは「富士スピードウェイ」で開催されていた“グラチャン”こと富士グランドチャンピオンレースの駐車場だ。

 今でいう“改造車フェス”と化した富士スピードウェイを目指して日本全国から改造車が集まることになったのだが、警察は日本全国からグラチャンに向かう改造車の一斉検挙に総力を費やし、各高速道路の乗り口やPAで検問を実施して数多くの改造車が検挙された。

 このブームはバブル経済の訪れと共に沈静化して行くのだが、その影響はバブルでバカ売れした輸入車や高級国産車にも爪痕を残した。1980年代の後半にはハイソカーブームの頂点として一世を風靡したメルセデス・ベンツが夜の六本木に二重駐車するほどに溢れ返り、改造車の名残として派手なメッキのフェンダーモールやブーメラン型のアンテナ、携帯電話のアンテナなどを装備し、ケーニッヒやロリンザー、ブラバス、ABCなどのヨーロピアンチューナーブランドのコピーエアロを纏った改造車が大繁殖したのである。

 1980年代を席巻した改造車ブーム。その影響は決して悪いものばかりではない。若者のクルマ離れが著しい昨今だが「クルマ=自己主張の道具」として育った当時の若者が大人となり、子育てが終わった世代が当時を懐かしみ「旧車」として青春時代を共にしたクルマを探し始めている。

 エコやハイブリッドの台頭で家電と化した自動車では満足できない世代のニーズにより、スクラップとして消えて行くはずだった多くの旧車たちが命を救われている。日本が誇る「昭和の名車たち」は、それだけ魅力を秘めているということだ。

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