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サファリ王者の「後継」だけど大苦戦! スープラは何故「ラリー」では歯が立たなかったのか?

セリカTCターボの後継としてサファリ・ラリーでデビューしたスープラ3.0i

 直4エンジンを搭載するセリカ……当時は2代目のA40/50系……の兄貴分として直6エンジンを搭載するセリカXX(ダブルエックス)が登場したのは1978年10月のことでした。しかし輸出仕様ではSUPRA(スープラ)に車名を変更していました。1981年に登場した2代目のA60系も同様に、国内仕様(セリカXX)と輸出仕様(スープラ)で車名を変えていましたが、1985年のモデルチェンジでは4気筒仕様がFFコロナ/カリーナとフロアパンを共有する前輪駆動にコンバートされたことから、1年後に登場した6気筒仕様はセリカ・シリーズより独立。そしてそれを機に国内仕様も輸出仕様と同様にトヨタ・スープラを名乗るようになりました。 ですからスープラの誕生を、国内でもスープラを名乗るようになった1986年2月とする説が一般的になっています。とすれば今年、2021年はスープラ生誕35周年となりますが、いずれにしても現行のGRスープラは、モータースポーツで大活躍。SUPER GTのGT500仕様からGT300のJAF-GT仕様。さらにスーパー耐久でもFIA-GT4仕様が優勝を争っています。

 残念ながらラリーではグループBとグループAの端境期での登場ともなり、主要なイベントに姿を見せることはありませんでしたが、80年代中盤には国内での初代スープラ(70系)が世界ラリー選手権(WRC)にも参戦していました。生誕35周年となるメモリアルイヤーということで、今回は、WRCなどで活躍したスープラの雄姿を振り返ることにしましょう。

サファリ王者FRセリカの血筋

 1985年に初代スープラ(輸出モデルを含めると3代目)が登場するまで、WRCでの主戦マシンはセリカ・ツインカムターボ(TCターボ)のグループB仕様でした。コンベンショナルな後輪駆動でしたが強大なパワーを利して、とくにサファリ・ラリーやアイボリーコースト・ラリーでは優勢を誇る名車でした。

 しかし他のイベントでは1980年に登場したアウディ・クワトロを始めとする4輪駆動車が強みを発揮していて、セリカTCターボが得意としていたアフリカン・イベントでも、4輪駆動勢力がじわじわと優位に転じつつありました。一方で、死闘を制してセリカTCターボがサファリで3連勝を挙げた1986年を限りに、WRCの主役はグループBからグループAに移行することになりました。

 セリカTCターボの後継となる競技車両には4輪駆動システムが必須と考えていたトヨタは、前輪駆動にコンバートされた4代目セリカ(T160系)をベースに、トヨタ初の4輪駆動システムを組み込んだGT-FOURをグループA仕様のラリーマシンに仕立てるプロジェクトを立ち上げるとともに、次期エースがデビューするまでのショートリリーフとしてスープラに白羽の矢を立てたのでした。

 ショートリリーフとは言うもののスープラ・ターボのポテンシャルは侮りがたいものがありました。搭載している3L直6ツインカム24バルブ+ターボの7M-GTEエンジンは260ps(グループA・ラリー仕様。レース仕様では290psを公称)を発生していましたし、セリカTCターボで培ってきたデータをもとにセットアップされたシャーシは、とくにアフリカン・ラウンドでは優位が期待されるところとなっていました。

 そして実際、実戦デビューの舞台となった1987年のサファリ・ラリーでは、エースのビヨルン・ワルデガルドはエンジントラブルに泣いてリタイアに終わったものの、ラーシュ-エルク・トルフが3位入賞を果たすことになりました。ただし新たな悩みの種も出現し、4輪駆動勢のパイオニアとなったアウディは着実に戦闘力を高めており、これまで苦手としていたアフリカン・イベントにも関わらず、見事な1-2フィニッシュを飾っていたのです。

大地を駆け抜けるタフネスさの証明

 続いてスープラが姿を見せたのは北米ラウンドのオリンパス・ラリー。初めてWRCのカレンダーに組み込まれた前年は、ランチア・デルタS4(マルク・アレン)とプジョー205ターボ16(ユハ・カンクネン)、そしてアウディ・スポーツ・クワトロ(ジョン・バッファム)の4輪駆動勢がトップ3を形成していることからも分かるように、後輪駆動のスープラ・ターボが苦戦するであろうことは予想できました。しかしトヨタがイベントのタイトルスポンサーを務めていたことから、パスすることはできなかったのかもしれません。ともかく、ワルデガルド組が後輪駆動最上位の6位に留まり、トルフ組はエンジントラブルでリタイアに終わっていました。

 続いてスープラが参戦したのは香港~北京ラリー。1999年にWRCのカレンダーに組み込まれることになるチャイナ・ラリー以前には、世界選手権レベルのイベントは香港~北京ラリー以外中国にはありませんでした。香港が中国に返還される英中共同声明が発表された翌年の1985年に、記念行事的に第1回大会が開催された香港~北京ラリー。中国の高速道路インフラが年々飛躍的に進んでいくため、年を追うごとにコースレイアウトもグラベルだったりターマックだったり、あるいはそのミックスだったりしていくのですが、スープラが参戦した1987年の第3回大会ではグラベルが主な舞台。温帯というよりも亜熱帯に近い香港から亜寒帯の北京まで、一気に北上する総走行距離は約3800㎞。WRCラウンドの中でも屈指の消耗戦となるサファリと同様の、タフな展開が予想されていました。

 前年までの2回の大会ではアウディ・クワトロA2が制していましたが、この年は前年のウィナー、スティグ・ブロンキストがフォード・シエラXR 4×4に乗り換えて参戦。2台のスープラとタフなバトルを展開することになりました。トルフ組はデフトラブルで早々にリタイアしたものの、ワルデガルドとブロンキストは最終日まで秒差のバトルを続けました。しかし最後の最後にブロンキストのシエラに電気系トラブルが発生して後退(結果的にはリタイア)し、ワルデガルドが勝ち名乗りを挙げることになりました。これは、国産車として、そして後輪駆動車としても初優勝となりました。

セリカGT-FOURにバトンタッチ

 スープラの次なる舞台はアイボリーコースト・ラリー。後輪駆動車が、そしてトヨタとTTEが得意としていた、もうひとつのアフリカン・ラウンド。当然、スープラは優勝候補の筆頭に挙げられていましたが、1週間前に香港~北京ラリーを戦い終えたばかりというハードスケジュールが気になるところでした。そしてそのことが思わぬ悲劇を生むことになりました。北京から空路、アイボリーコーストに向かったコンペティション・マネージャーのヘンリー・リドンが乗った飛行機が墜落し、リドンは帰らぬ人となったのです。

 彼の喪に服すためにチームはイベントからの撤退を決断。優勝候補に挙げられていたスープラは戦うことなくドイツに引き上げることになりました。翌1988年にはセリカGT-FOURが実戦デビューを果たしていますが、サファリは引き続きスープラで戦うことになりました。 しかし、同年からチームに加わったケネス・エリクソンとカンクネン、そして引き続きエースを務めるワルデガルドが、それぞれ4位、5位、7位に留まり、スープラのWRCチャレンジは終了。香港~北京ラリーで優勝を飾ったものの、悲運のラリーカーの歴史を終えることになりました。

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