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「2位以下は負け、じゃなかった」チェアウォーカー長屋宏和さんが今もなお「モータースポーツ」にこだわる理由

身体的ハンディキャップを全く感じさせない

 

 2020年8月にツインリンクもてぎで行われたカートの耐久レース「K-TAI」に参加した筆者は、チーム宛に差し入れられた、着け心地のいいデニム素材のオシャレなマスクをいただいた。差し入れ主は、以前同チームから「K-TAI」に参戦したことのある元F3ドライバーで、レース中の事故によりチェアウォーカーとなってしまった長屋宏和さんとの説明を受けたが、その時点では「そんな人がいるんだ~」と、記憶の片隅に留めた程度だったと思う。ただ、いただいたマスクの着け心地がとても良く、コロナ禍でのマスク生活にウンザリしていた筆者は、かなり気に入ったことを覚えている。

 そんな長屋さんの夢はF1ワールドチャンピオン。14歳からレースをはじめ、全日本カートやフランス留学などを経て、2002年にはF1に続くカテゴリである全日本F3選手権に参戦。同年10月13日に全日本F3ドライバーとしてゲスト参戦したF1世界選手権日本グランプリの前座レース、「フォーミュラ・ドリーム」でのレース中の大クラッシュで頸髄を損傷し、四肢麻痺のチェアウォーカーとなったという。 長屋さんはF1ワールドチャンピオンを目指し、とんとん拍子にそのキャリアを積み上げている真っ只中で、その夢に向けたすべての道を閉ざされてしまったのだ。いったいどれほどの絶望だったのだろうか。

 一方的に筆者が長屋さんの存在を認識してから約1年後、取材をさせていただく機会に恵まれた。実際にお会いした長屋さんは驚くほど明るく前向きで、身体的なハンディキャップを感じさせないほどチャレンジ精神旺盛。思いついたことにはどんどん挑戦していくパワフルな印象で、筆者の浅はかな心配などは余計なお世話だった。

 

今なおモータースポーツ界で活動を続ける理由とは

 長屋さんに会うことが出来たら、どうしても聞いてみたいことがあった。それは、子どものころからの夢であり、大怪我をするまでの人生すべてを捧げてきたと言っても過言ではないモータースポーツに、現在も関わり続ける理由である。今でも長屋さんは、自身でカートレースに参戦したり、レーシングチームの監督をしたりと、モータースポーツ界で精力的に活動を続けているのだ。

「僕しかやってない経験もあるからね。事故のことも、今はハンスって当たり前にあるけど、事故当時はなかったから、もしハンスがあれば僕は車イスになっていなかったかもしれない。そういう安全面などを、自分がレースをやっていた時は考えたことがなかったんですよ。自分がまさかレース中の事故で車イスになるなんて、微塵も思っていなかった。でも、車イスでの生活になってから気付いたこともたくさんあって、同じ人を出したくないんです。だから若手育成でも、安全面にはかなり慎重になっています。 レースって流れだと思うんですよ。何かが起きる時って、やっぱり悪い流れがあって、何かにつまずいている時だったりするんです。実際に、僕が事故に遭ったレースでも、金曜日の走行でギヤが組み間違えられてて、1・2・3・4・5と順番に入るはずのギヤが、1・3・2・4・5と入るように組まれてしまっていたんです。レースウィークは、練習走行1本、予選、決勝の3回しか走行するチャンスがなかったので、練習走行でギヤがおかしくても、そこで負けたくない自分も居たし、何とかしたい気持ちもあったので、無理もしていたんだと思います。その自分の気張った気持ちが焦りを生んで、あのクラッシュに繋がったんだろうなって、今考えれば自分でもわかる。そういう悪い流れには、すごく敏感になっているので、自分の教えている若手は、常に落ち着かせてあげられるように心掛けています」

 

 レースでの大クラッシュで、多くを失った長屋さんだからこそ分かること。それを、長屋さんと同じ夢を持つ若手ドライバーに伝えることで危険を最小限にする。それが、モータースポーツにおける長屋さん自身の現在の使命だと言うのだ。「自分で走ることが一番好きだったし、人に教えることは得意じゃないと思っていたけど、実際に教えてみたら若いドライバーのダメだったところが良くなって行って、その姿を見ているのが楽しいなと感じています。自分の考えを結果に残してくれるのって、やっぱり嬉しい。

 もちろん教えることは自分の意志とは違うので、教え子が言ったとおりにできないと悔しいんですよ。自分が出来ていたことをできるようになってもらうには、相手の目線に立って伝えないといけないし、レベルを下げてあげないと伝わらない。だから、それがキチンと伝わって、結果が残ると僕はとても嬉しいんです」

 

「2位でも3位でも喜べていたら、もっと違ったかもしれない」

 レースをやっていた当時の長屋さんは、1位だけが勝ちで2位以下は負けだと思っていたから、悔しい記憶のほうが多く残っているという。

「2位でも3位でも喜べていたら、もっと楽しい記憶になっていたのかな?と、今となっては思うんです。だから、K-TAIに出た時も悔しい記憶の方が大きくて……。順位が付くことで負けるのが嫌なので。でも、周りの人たちが完走をしたことに喜んでいる姿を見て、完走することにこんなにも意味があるという事実を知ったんです。事故をする前はそんな感情はなかったので、当時もこういう気持ちを持てていれば、楽しくレースができたのかな? と思います」

「でもそうなると、ただ楽しかったというだけで、結果を残せずに終わっちゃうのかもしれませんが、それは今となっては分からない。1位じゃなくても喜べていたら、次はなかったかもしれないし、悔しい気持ちがあったからこそ頑張れた部分もあるので、完走することの喜びを知った今の自分で、もう一度F1を目指してみたかったです」

 2位以下は負け。この言葉を聞いて、世界で20人程しか手にすることができないF1のシート獲得を目指していたレーシングドライバーとしては、必須のように思えるこの負けん気の強さが間違いであると、筆者にはどうしても思うことができなかったが、確かに2位・3位でも喜べる心の余裕があれば、レーシングドライバーとしての長屋選手は、今なおレースを続けることが出来ていたかもしれない。しかし、驚くほど大きな金額が動くプロモータースポーツの世界は、そんなに甘いものではないことも事実で、F1ドライバー長屋宏和は実現しなかったのではないかと思う。

「だから、今教えている若手には、2位でも3位でも、自分の実力より少しでも前でチェッカーを受けたら、褒めてあげるようにしています。悔しいね。残念だったね。っていう言葉よりも、前向きにしてあげることのほうが必要なのかなって思って。ダメな中でもいいところを探して、自信を付けさせてあげたいと思っています」

 

「前向き」にしてあげることの大切さ

 当時の長屋さんに必要だったのは、この考え方を持つアドバイザーだったのではないだろうか。レーシングドライバー時代の長屋さんの周りに、現在の長屋さんと同じ考え方を持つ大人が付いていれば、あの事故は起こらなかったかもしれない。勝ちだけを求めるレーシングドライバーのクールダウンとインプット・アウトプットを行いながら、どんなに不利な状況でも冷静な走りができるドライバーを育てることこそが、危険と隣り合わせのモータースポーツで、最大限の安全性を担保できる方法なのではないだろうか。

 そして、長屋さん自身が言うように、その役割は勝ちだけを求め続けたレーシングドライバー長屋宏和と、チェアウォーカーとなってもレースに挑戦し続け、完走することの大切さを知った長屋さんというふたつの顔を持つ長屋さんにしかできない役割なのだと思う。

 長屋さんは、車イスの生活となってもなおモータースポーツと関わり続けることで、その存在を持って意識的・無意識的の両方で、その事実を伝え続けているのだ。

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