サイトアイコン AUTO MESSE WEB(オートメッセウェブ)

「グロリアスーパー6」「デボネア」「クラウンエイト」! 1964東京オリンピックを駆け抜けた 「聖火リレー伴走車」

東京オリンピック もうひとつの主役となった往年のクルマたち 

 コロナの感染拡大に加えて、組織委員会のさまざまな不祥事で、本来とは違った意味で注目を集めてきた第32回オリンピック競技大会、通称“TOKYO2020”が、開会式に先駆けて女子ソフトボールにプレイボールが掛かり開幕。22日には開会式も行われています。ここからはスキャンダルではなく、選手たちの活躍、一挙手一投足に注目も集まっています。その一方で、クルマ好きには見逃せない話題として、すでにプログラムを終えた(走り終えた)聖火リレーの伴走車ですが、ここでは1964年の東京大会と比較しながら紹介していきましょう。

聖火リレー伴走車は時代を語る

 東京を舞台に“夏の”オリンピックが開催されるのはこれが2回目です。1回目は57年前の1964年(昭和39年)に開催されており、高度経済成長期真っ盛りだった我が国では、全国民が一丸となって初のオリンピックを盛り上げ、そして自らも楽しんでいたように記憶しています。もっとも、筆者は当時小学生だったこともあってあまり明確に意識していた訳ではなく、また半世紀以上もの昔物語なので記憶も定かではないのですが……。 トヨタがトップスポンサーを務めることになり、今回の競技運営車両にはトヨタ車が使用されています。聖火リレーの伴走車にもLQやMIRAIをはじめとするトヨタ車が選ばれ、日本全国を走っていた映像が、インターネットにもあふれていました。 ただし、スマートなMIRAIと聖火ランナーだけでなく、まるで街宣車のような大型バスを何台も連ねて行列が続いていたのは、あくまでも個人的な感覚ですが、とても興ざめでした。そしてこれも個人的な感覚ですが、大枚をはたいたであろうスポンサー企業の好感度が一気に失せてしまい残念でした。

 ところで、1964年の東京大会では、組織委員会から国内各メーカーに競技運営車両貸与の“お願い”が出されました。これに応えてトヨタと日産、三菱、そしてまだ日産に吸収合併される前のプリンスの4社が、当時の自社ラインアップのなかで、フラッグシップに位置づけていたスーパーセダンを提供したのです。トヨタはクラウンエイト、日産はセドリック、三菱はデボネア、そしてプリンスはグロリアでした。

“技術の粋”57年前と現在と 

 ちなみにトヨタの資料によるとクラウンエイトだけでなくクラウンとコロナも含めて計7台が提供されたようです。クラウンエイトは1964年の4月に発売されたばかりのニューモデルで、国産車として初のV8エンジンを搭載した普通乗用車(3ナンバー)。クラウンを名乗っていましたが、1962年のモデルチェンジを受け、当時は2代目のRS40系に移行していたクラウンとはまったく異なるVG10の型式を持ち、1967年には初代センチュリーへと発展していきます。

 セドリックは1960年に登場した初代モデルで、1962年のマイナーチェンジで丸形4灯のヘッドライトが縦置きから横置きに変更された後期型です。1963年に登場した2.8L直6のK型エンジンを搭載したスペシャル(型式は50型)。こちらは我が国初の3ナンバー車でした。

 一方、グロリアは5ナンバーでしたが直4エンジンを搭載したデラックスに加えて、前年に発売されたばかりのスーパー6を10台提供したとされています。このスーパー6は小型車規格(5ナンバー)として初の6気筒、かつ国産量産車として初のOHCエンジンを搭載していました。 デボネアも5ナンバーながら直6エンジンを搭載、グロリアに次いで5ナンバーとして2番目の搭載例でした。つまり、当時としては国内メーカーの技術の粋を集めたラインアップが、日本全国津々浦々を走り回ったのです。 かつての栄光を背負って聖火リレーの伴走車として走り回っていたクルマたち。ですが、ときの移り変わりに呑み込まれたかのように、セドリック/グロリアとデボネアはすでにモデルが新車のマーケットからは姿を消しています。クラウンのモデルライフも終焉間近と伝えられるなど、時代の流れを感じさせられることの多い今日このごろです。

 技術の研鑽を重ねていくことはもちろん継続していく必要がありますが、当時の熱い心と高い志を、これからも持ち続けてほしい。いちクルマファンとしては自動車メーカー各社に、そう思って期待するばかりです。

モバイルバージョンを終了