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「ストラトス」「アルピーヌA110」「アウディクワトロ」WRC創生期に活躍した伝説のラリーマシン

各国の歴史的イベントがシリーズ選手権として集約され始まったWRC

 モータースポーツの最高峰イベント、すなわち世界選手権が冠せられたシリーズのひとつに世界ラリー選手権(WRC)がある。最近ではトヨタがヤリスで復帰して以来、毎年メイクスまたはドライバータイトルのいずれかを獲得して世界チャンピオンに輝いている。だが、WRCは選手権としての発足自体は1973年と、サーキットにおけるほかの世界選手権シリーズ(F1、スポーツカーによる耐久シリーズ)と較べてその歴史は比較的新しい。 WRCは、それまで世界各国で個別に開催されていた歴史を持つラリーイベント(モンテカルロラリー/モナコ、RACラリー/英、スウェディッシュラリー/スウェーデン、アクロポリスラリー/ギリシア、1000湖ラリー/フィンランド、サンレモラリー/イタリアなど)をシリーズ化、世界選手権を冠することで、より格式の高い競技として認知、成立させることを狙いとして始まった。

 さて、このWRC、スポーツカーによる耐久選手権(正確にはメイクス選手権)シリーズと同じく、時代性を反映した車両規定で行われてきたところに特徴があった。今回はWRCの創生期、第一期と言い換えてもよいグループ2/4規定の時代(1973〜1982年)に活躍し、歴史に名を残してきたラリーカーを紹介することにしよう。

WRC初代チャンピオンはルノー・アルピーヌA110

 まず1973年、記念すべきWRC初代チャンピオンカーに輝いたのがルノー・アルピーヌA110だった。アルピーヌ自体は、1956年に創業を開始したフランスの自動車メーカー(と言ってもかなり小規模だったが)で、ルノー社の車両と結び付きが深い。そして、同社の車両をモータースポーツ用に改造あるいはチューニングアップ作業を手掛け、その後ルノー4CVに特製FRPボディを架装したA106を発売している。 A110は1963年に登場した同社のオリジナルモデルで、鋼板バックボーンシャーシにFRPボディを架装。チューニングしたルノーエンジンをRR方式で使う設定で、搭載エンジンは1100cc、1300cc、1600ccと順次排気量を拡大していく。軽量コンパクト、瞬発力に優れたエンジン、RR方式による強い後輪トラクションといった特徴を生かし、ヨーロッパのラリーフィールドで活躍した。

 最終的には1800ccエンジンを積むモデル(1800VA)にまで発展する。WRCユースを視野に入れた限定モデルで、全13戦で組まれた1973年のWRCで6勝(参戦10戦)を記録。もともと競技に特化した「ラリースペシャル」の性格が色濃いモデルで、ハンドリング性能が要求され、スピード型ラリーの多いヨーロッパラウンドで強さを発揮した。

イタリアの反撃! ランチアが驚異のストラトスを投入

 WRC開催1年目に強さを発揮したアルピーヌの存在は、ほかのコンデンダーにも大きな影響を与えていた。なかでも競技参戦には自負心を持っていたイタリアの名門ランチアが、予想を超す内容の車両を生産してWRCに臨んできた事実は周囲を驚かせた。フェラーリ製2418ccのV6DOHCをミッドシップマウントする「ストラトス」の企画である。 ストラトスそのものは、デザイン工房ベルトーネが1970年のトリノショーに出展したデザインスタディだったが、そのパッケージングが競技に向くと判断したランチアが、ラリーカーとして開発に着手したモデルだった。

 センターセクションを鋼板モノコックで構成。その前後にサブフレームを装着し、FRP製カウルを被せる構造で、結果的にホディデザインはマルチェロ・カンディーニ、シャーシ開発にはジャンパオロ・ダラーラが関与する、言ってみれば、イタリア自動車界の粋を集めたようなモデルだった。ちなみにダラーラは、その後ランチア・ベータ・モンテカルロの開発にも携わることになる。 ストラトスは鋭敏なハンドリングと強力なエンジンの組み合わせにより、1974年から1976年までWRCを3連覇。これまでアルピーヌが得意としてきたスピード型ラリーで主導権を握り、向かうところ敵無しの強さを発揮した。

アバルトのイタリアンパワーも炸裂し天下取りはフィアットへ

 この「ラリースペシャル」ストラトスに、真っ向から勝負を挑んだのが同じイタリアメーカーのフィアットだった。フィアットは、量産モデルの124スパイダーをベースにアバルトと共同で124アバルト・ラリーを開発。当時のWRC最上位規定であるグループ4を念頭に作られたモデルで、1756ccの4気筒DOHCエンジンを搭載する。1974年、1975年の2シーズンWRCに投入され、ランチア・ストラトスとやり合った末に、2年連続でメイクスランキング2位に惜敗する結果となった。

 ただ、この124アバルトの後継として登場する131アバルトが、ランチア・ストラトス撤退後のWRCで、フィアットグループのラリー活動を担う主役として活躍することになろうとは、誰も予想し得なかった。 創業者のヴィンチェンツォが有能なレーシングドライバーでもあったランチアは、戦前からモータースポーツに積極的な関与を見せ、戦後もラリー活動を展開していた。だが、1969年にフィアット社の傘下に組み込まれる流れをたどっていた。

 こうした意味では、同グループ企業のランチアとフィアットが真正面から戦ったこの時代のWRCは興味深い事態だった。だが、3年連続でタイトルを獲得したランチアは、サーキットレースに新たな活路を見出し、WRCはフィアットに任せて転出することになる。

英国からコスワースで討って出たフォード・エスコートRS1800 

 131アバルトのWRCデビューは1976年。レギュラー参戦ではなかったが、早くも1000湖ラリーで初勝利を挙げると、翌1977年はフィアットグループを代表してWRCに臨むことになり、参加全11戦中で5勝をマークする。しかし、ライバルのフォード・エスコートRS1800もシリーズ4勝と1歩も引かぬ走りを披露。上位8戦分の有効ポイント制で争う選手権は、フィアット136点、フォード132点と超僅差の戦いになっていた。

 131アバルトは、1.3L/1.6Lエンジンを積むフィアットの小型3ボックスセダン131をベースにする車両で、これに1995ccの直4DOHCエンジンを積むラリースペシャルを意図する高性能モデルだった。この時期のWRCは、量産車をベースとしながら後の大がかりな改造により、市販車とは異なる高度なメカニズムを持つ車両同士の戦いとなっていた。 この端的な例が、131アバルトの強力なライバルとなったフォード・エスコートだった。本来は1100cc/1300ccのエンジンを積む小型車としてヨーロッパ・フォードが開発したモデルだったが、コルチナの例に倣い、コスワース社が開発した4バルブDOHCエンジンを搭載する特殊モデルとなっていた。いわゆるBDAエンジンで、最初期モデルのマーク1では1600ccだったが、第二世代のマーク2で1975ccに排気量を拡大。エスコートへの搭載はFRモデルのマーク2までだったが、もともとが2L規定のF2用として開発されていただけに、強力なエンジンで知られる131アバルトをも軽く凌駕する。エスコートはこの強力なエンジンに支えられ1979年のWRCタイトルを獲得していた。

日産バイオレットはヨーロッパ遠征で暴れる

 この131アバルトとエスコートRS1800の全面対決は1980年まで続いたが、この両車に割って入る形で存在感を示したのが日産バイオレット(PA10型、ダットサン160J)だった。 当時の日産は、日本サイドはサファリラリーに重点を置く活動体制で、WRCはチーム・ダットサン・ヨーロッパが受け待つかたちとなっていた。いわゆる準ワークスの体制だったが、グループ2仕様のL20B型SOHCエンジンを使いながら、バランスと耐久力に優れた完成度の高さを武器に、1979年はフォードに次ぐシリーズ2位、1980年もフィアットに次ぐシリーズ2位と、WRCに日産ありの印象を強く植え付けていた。 なお、バイオレットは、グループ2仕様の車両で1979年、1980年、4バルブDOHCのLZ20B型に積み替えたグループ4仕様の車両で1981年、1982年のサファリラリーを制覇。同一イベント4年連続優勝という金字塔を打ち立てていた。

下克上的混戦のシリーズもあった競技車両規定の変革期

 混戦となった1981年は、伏兵タルボ・サンビーム・ロータスがタイトルを獲得。優勝は1回だけだったが、2位4回、3位1回、4位1回の安定した上位成績が勝因となっていた。タルボ・サンビームはクライスラー・ヨーロッパが企画した小型2ボックスカーで、これに2174cc4バルブのロータスツインカム(911型エンジン)を搭載する車両だったが、タイトルを獲得した1981年時点では、タルボのブランドはPSA・プジョーシトロエンの所有下にあった。 そしてグループ2/4規定の最終年となる1982年は、新規定グループBとの共存期間として設定された。新鋭アウディクワトロのターボ4WDと、グループ4規定車両オペル・アスコナ400の自然吸気エンジン+FR方式の一騎打ちとなった。 アウディクワトロは、センターデフを持たない直結4WDの方式だったが、低μ路で高いトラクションを発揮する4WD方式と高出力・高トルクを発生するターボエンジンの組み合わせで、瞬発力やコントロール性のよさを身上とするFR方式を力で制する形となっていた。この年、メイクスタイトルはアウディ、ドライバーズタイトルはアスコナ400のヴァルター・ロールが獲得し、勝敗をつければ1勝1敗の引き分けだった。 アウディ・クワトロは、市販車のメカニズムとして4WDが安定性、安全性が高い方式としてかねてよりアウディが提唱した駆動方式で、日本のスバルが同様の思考で乗用車作りに取り組む時期と重なっていた。

 一方のアスコナ400は、グループ4規定全盛時にオペルが先発メーカーに対抗しようと企画したグループ4公認取得モデルとして1980年のWRCでデビュー。車両内容としては優勝を狙えるレベルにあったが、開発度でアバルト131、タルボ・サンビームにいま一歩およばず、熟成度が進んだグループBへの移行期に、アウディと雌雄を決するかたちになったものだった。

 それにしても、アウディクワトロが扉を開けたグループBの時代は、その後誰も予期せぬ超高性能時代へと突入し、悲惨な結果を招いた末にグループA規定に集約される道のりを歩んでいくことになる。

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