「モータースポーツの日産」史上で不遇だった名車
現在は、それほど強烈な印象を持たない日産のモータースポーツ色だが、かつては「レースの日産」を自他ともに認める時代があった。もっとも日産モータースポーツの発端は、1958年の豪州ラリー(正式名称はモービルガス・トライアル)と国際ラリーが起点となっているから、歴史に忠実な言い方をするなら「モータースポーツの日産」と表現するのが正しいのかもしれない。
昇り調子で展開してきた日産のラリー史を振り返ってみたいが、そのなかで時代の波に乗りきれず、不遇に終わった2台の名車があった。1台はグループB規定の240RS(BS110)、もう1台はグループB規定の消滅を受けて新たに採用となった、グループA規定下の200SX(RVS12)である。ちなみに日産のラリー史は、WRCへのレギュラー参戦は行わず、サファリを中心とするスポット参戦に終始してきた事実がある。このあたりは、その後に登場するトヨタ、三菱、スバルとは異なる部分である。
Gr.B規定の初期にFRを見舞った4WDの「轍」
改造競争に陥ったグループ2/4規定の不備を踏まえ、1983年からWRCの正式規定として採用されたのがグループB規定だった。このクループB規定は、別名ラリースペシャルと呼ばれるほどラリーに特化した車両規定で、アウディ・クワトロに始まりプジョー205T16、ランチア・ラリー038(デルタS4)と、市販車には存在しない怪物ターボ4WDマシンが相次いで登場する絶対性能至上主義の特殊なカテゴリーだった。
240RSは、こうしたグループB規定の初期に企画された車両で、内容的にはその前時代、グループ2/4規定の延長線上にあるFRラリーカーとして登場した。新開発の2.4L 4バルブDOHCのFJ24型を搭載する車両で、1979年から1982年まで、前人未踏のサファリ4連覇を果たしたPA10型バイオレットの正常進化版と見なせる車両だった。
グループA究極のFRマシンでも「轍」に
1987年から適用開始となったグループAによるWRCは、ランチア・デルタHFがリードし、これをトヨタ・セリカGT-FOURが追いかける展開となっていた。グループA規定は、生産車両をベースとするカテゴリーであるだけに、ターボ4WDの生産車を持たないメーカーにとっては不利だった。本格化するターボ4WDのグループBカーを前に、自然吸気のFRカーでしか対応できなかった日産は、このグループA規定移行時にも適切な持ち駒がなく、生産車のなかでもっともラリーカーに適したモデルとして200SXを選んでいた。