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「ビッグボス」新庄剛志監督がドライブ! 伝説の「ランボルギーニ・カウンタック5000S」ってどんなクルマ?

ランボルギーニ・カウンタックLP500S

スーパーカー世代が久しぶりに悶絶したカウンタック5000Sとは

 北海道日本ハムファイターズの監督に就任して以来、連日さまざまな話題をメディアを通じて提供してくれている「BIGBOSS(ビッグボス)」こと新庄剛志さん。クルマ好きの間では、なんといっても11月30日に札幌ドームで開催されたファンフェスティバル2021に、ランボルギーニ「カウンタック5000S」をドライブして登場。その翌朝、久しぶりにスポーツ新聞を買っちゃった自動車趣味人が続出したほどのまさにビッグニュースとなった。

 テレビのワイドショーもカウンタックのことを紹介し、その認知度がさらに高まったことも新庄効果のひとつだといえる。世間一般まで浸透したこともあり、ここであらためてカウンタックの概要とともに、ビッグボスがドライブした「5000S」について紹介しよう。

※編集部注:本来であればカウンタックLP500Sが正式名称ですが、ウルフ・スペシャルと情報が混在するため本稿では5000Sと表記しています

1973年にシザードア初採用のカウンタックLP400が華々しく登場

 ランボルギーニ・ミウラの後継車として登場したカウンタックは、クルマ好きあれば誰もが知っているスーパーカーの代名詞だ。イタリア出身の世界的インダストリアルデザイナーであるマルチェロ・ガンディーニ(カロッツェリア・ベルトーネの元チーフデザイナー)が手がけたショーモデル/テストカーのLP500と同デザインで1973年に発表されたカウンタックLP400は、上方に開くシザードア(シザーズドア)を外観上の特徴としていた。

 スイングアップドアとも呼ばれるシザードアはガンディーニがデザインし、1968年のパリサロンで発表したデザインスタディのアルファロメオ・カラボ(ウェッジシェイプのパイオニア)で初めて採用された機構だ。

 ガンディーニは、この上方に開くドアのデザインを乗降のしやすさという機能面(スーパーカーは高くて広いサイドシルがあるため、実際には乗り降りしにくいケースもあるが……)と、スタイリング上のアイデンティティとして取り入れたと言われている。カラボがイタリア語でオサムシ(甲虫類)のことなので、諸説あるが飛び立とうとする昆虫の羽の付け根部分からインスピレーションを受けたという話もある。

 いずれにせよ、シザードアを持つ初めての市販車として登場したカウンタックLP400のインパクトは絶大。その後リリースされたランボルギーニのフラッグシップモデルがシザードアを採用し続けていることからも、いかに同社のアイデンティティとして確立したのかを窺い知れるのであった(日本ではガルウィングドアと混同されているが、それは誤りである)。

旧来のレーシングカー技術の集大成がLP400に詰め込まれる

 カウンタックLP400を自動車技術的観点から見れば、それは旧来からのレーシングカー生産技術の集大成といえるモデルであった。というのも、カウンタックLP400は、メルセデス・ベンツ300SLやマセラティのバードケージに代表される’50~’60年代のレーシングカーに採用例が多く見られる、完全立体構造の鋼管スペースフレームにV型12気筒エンジンを縦置きで搭載していたからだ。

 この特異かつレーシーなレイアウトにより、普通であればどうしてもホイールベースが伸びてしまう縦置きミッドシップでありながらも、トランスミッションを左右座席間に配置することでホイールベースを短くすることに成功。

 エンジンを横置きで搭載したミウラのホイールベースである2500mmに対し、カウンタックLP400ではさらに短い2450mmを実現していた。

 当時のランボルギーニが保有していた代表的なパワーユニットであるV型12気筒エンジンは、ショーモデル/テストカーのLP500では排気量がミウラ用のそれから1000cc以上も拡大されていた。だが、カウンタックLP400では3929ccにスケールダウン。

 最高出力も440psから375psにダウンしたが、トップスピード300km/hというランボルギーニからのアナウンスが変更されることはなかった。

ウルフ・カウンタックがモディファイの手本になった5000S

 ’80年代を迎えようとしていたころから、ライバルたちと比較するとカウンタックの旧態化が目立つようになる。まず、1978年にフロントスポイラーと大型のオーバーフェンダーでボディを派手にしつつ、足もとに当時最新の超扁平タイヤを履かせたカウンタックLP400Sが登場。そして1982年には、エンジンの排気量を4754ccまで拡大したカウンタック5000Sに進化した。

 カウンタックLP400Sおよびカウンタック5000Sに採用されたエクステリアや足まわりのモディファイは、カナダの石油王でF1グランプリにおいても自らの名を冠したマシンを走らせていたウォルター・ウルフ氏のオーダーによって製作された“ウルフ・カウンタック”をお手本としたもの。それらのアドバンテージポイントにより、ランボルギーニは新たなるカスタマーを獲得するに至った。

 その後、ライバルのひとつであるフェラーリ・テスタロッサに対抗するため、1985年にエンジンの排気量を5167ccまでに拡大し、ヘッドを4バルブ化したカウンタック5000クワトロバルボーレに発展。さらにクライスラー傘下に収まった1988年には、ボディの各部をモダナイズしたカウンタックの最終バージョンで、ランボルギーニ社の創立25周年を記念したカウンタック25thアニバーサリーへと進化した。

生産台数は僅か323台のみ! 伝説のスーパーカー「カウンタック5000S」

 1990年に生産終了となったカウンタックは、後継モデルのディアブロにフラッグシップモデルの座を譲りレジェンドカーとなった。 新庄新監督がドライブしたカウンタック5000Sの、ちょっとマニアックな話も記しておこう。

 BMWとのM1共同プロジェクトがうまくいかず、’70年代後半にイタリア政府の管理下に置かれたランボルギーニは、’80年代になっても経営不振が続き、フランスの実業家であるパトリック・ミムランが全株式を取得。新体制となったランボルギーニの最初のモデルとして、1982年4月のジュネーブショーで発表されたのがカウンタック5000Sである。ちなみに1982~1985年までの期間に323台が生産された。

 マセラティでボーラやメラクを手がけたエンジニアのジュリオ・アルフィエーリの指揮のもと、ボアとストロークを拡大することで、V型12気筒エンジンの排気量をそれまでの3929ccから4754ccに拡大。最高出力は、前身となったカウンタックLP400Sの353psから375psへとアップさせていた。サスペンション、ブレーキ、タイヤ、ホイールといったメカニズムおよびディテールはカウンタックLP400Sのままで、ボディ(エクステリア)もほとんど変わらなかったが、インテリアは北米の安全基準に従い、スイッチの形状などが変更された。

 ちなみに、カウンタック5000Sはアメリカに初めて正式輸入され、型式承認を受けたモデルで、北米向けに5000Sという名称が使用された。エンブレムはそれに準じている。 最後にトリビアをもうひとつ! カウンタックLP400とカウンタックLP400SのI型は8連メーターだったが、II型/III型は7連メーターに変更されていた。

 カウンタック5000Sは、カウンタックLP400SのIII型がベースなので7連メーターを採用し、III型と同じように室内スペースが3cm高いハイボディとなっている。どこかで遭遇したら、確認してみるといいだろう。

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