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世界初「スーパーチャージャー」搭載レースマシンが爆走! 100年前の「タルガ・フローリオ」が熱かった

1922年シチリア島でのレースから2022年への遺産

 新たな2022年を迎えるにあたって「〇〇周年」なクルマや出来事はあまたある。ここでは100年前のレースシーンを振り返ってみよう。イタリアのシチリア島でかつて行われていた「タルガ・フローリオ」は伝説的に語り継がれる公道レースだが、1922年には、のちのクルマの歴史に影響を与える画期的なトピックがいくつもあった。

伝説的なレース「タルガ・フローリオ」が国際的になった年

 1906年から1977年までイタリア・シチリア島で行われていた公道レース「タルガ・フローリオ」が自動車史に与えた影響は大きい。だが第一次世界大戦のころまでは、まだイタリアの自動車メーカーとイタリア人ドライバーが大半だった。

 1922年4月2日に開催された第13回タルガ・フローリオには、イタリアだけでなくドイツ、フランス、オーストリアから参加があり、42台がエントリー。一挙に国際的なレースへと進化し、最初の黄金期を迎えることとなったのだ。

 オーストリアから参戦したレースカーのなかでも注目すべきは、映画プロデューサーのアレクサンダー・コロヴラート=クラコフスキー、愛称「サッシャ」が乗ってきたマシンだ。

 フェルディナンド・ポルシェがオーストリアの「アウトストロ・ダイムラー」社に勤めていた時代に、友人のサッシャに励まされながら設計した小型・軽量なレーシングカーで、車両重量598kg、1.1Lの4気筒エンジンは50psを出力して最高速度144km/hを記録。

 1922年のタルガ・フローリオにサッシャはこのマシン3台を持ちこみ、自らも運転して出場したのだった。このポルシェ設計のレースマシンは「アウストロ・ダイムラー・サッシャ」と呼ばれている。

「スーパーチャージャー」搭載車が初めてレースに出場

 ドイツの「ダイムラー」社は1921年に2台のワークスカーで参戦し、総合2位に入賞すると、翌1922年には一気に7台のマシンをワークスとしてエントリー。

 ちょうどダイムラーは1921年秋のベルリン・モーターショーで、世界で初めてエンジンに「スーパーチャージャー」と呼ばれる過給器を搭載した量販車「メルセデス6/25HP」と「10/35HP」を発表したばかりだった。

 そこで排気量1.5Lまでのクラスでレースに勝利すべく、ダイムラーの技術者たちはスーパーチャージャー付きのレーシングカー「メルセデス6/40/65HP」を設計。1922年のタルガ・フローリオの1カ月も前に20人のメカニックと機材をシチリア島に上陸させて、レースに向けて集中的に準備を進めていったのだった。

 ところが結果として、優勝したのはプライベーターのイタリア人貴族ジュリオ・マゼッティだった。前年には「フィアットS57/14 B/4.5」でタルガ・フローリオを制していたマゼッティは、ダイムラー社の技術責任者パウル・ダイムラーからレースのほんの数週間前に受け取ったばかりの1914年型「メルセデス・グランプリマシン」で優勝してしまったのだ。

 なお、レース直前には、国粋主義者のシチリア人によるレース妨害が噂されていた。当時ダイムラーのレーシングカーはホワイトに塗られていたため、ドイツ車は誰でも見分けられた。マゼッティは自分のマシンをレース前に、イタリア車用の赤に塗り替えて嫌がらせに備えたほどだ。

 ドイツ軍団の襲来にピリピリしていたシチリア島の観客たちが、マシンこそ旧式ドイツ車とはいえ、同じイタリア人のマゼッティが優勝したことで歓喜したことは言うまでもない。

若きエンツォ・フェラーリやイタリア初の女性ドライバーが「アルファロメオ」から出走

 地元イタリアのメーカーも海外勢力に対抗すべく、多くのクルマを1922年のタルガ・フローリオに投入。「フィアット」は4台、「アルファロメオ」は6台のワークスカーをシチリア島へ運んだのだ。

 アルファロメオのワークスドライバーのなかには、イタリア初の女性レーシングドライバーであるマリア・アヴァンツォ男爵夫人もいた。「ミッレミリア」にも5回出場しており、女性がレース競技に参加する権利を求めて戦った、初期のフェミニズム活動家のシンボルとしても知られている。

 そして若き日のエンツォ・フェラーリ青年(24歳)も、アルファロメオのワークスドライバーとして走っている。彼は1920年のタルガ・フローリオでは総合2位に入賞し、1921年は5位。この1922年には「アルファロメオ20/30 ES/4.2」で参加するも、16位とふるわなかった。

 本気で優勝を狙いにきていたドイツ・ダイムラー社のチームでは、勝利に備えて大量のシャンパンを冷やしていた。ジュリオ・マゼッティが1914年型のメルセデスに乗って新記録でゴールラインを通過すると、マゼッティがプライベーターであるにもかかわらず、ダイムラー・チームはシャンパンをゴールエリアの人々にふるまったのだった。

 最後の写真は、レース後に称えあうマゼッティ(右)とフェラーリ(左)の写真。フェラーリの後ろにはアルファロメオのエースドライバー、アントニオ・アスカリの姿もある。

 それから100年。自動車業界には電動化の波が来て、モータースポーツのあり方も変わらざるをえない面は確かにあるが、本気のレース競技を通じて友情を育むスポーツマンシップは、いまも今後も変わらないはずだ。

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