サイトアイコン AUTO MESSE WEB(オートメッセウェブ)

熱狂的なスポーツカー愛好家の「石原慎太郎さん」が溺愛した2台の名車とは

参議院初登院にコスモスポーツで行った話は有名

 芥川賞作家であり、持ち前のリーダーシップを発揮し、一時代を築いた政治家でもあった石原慎太郎さんが去る2月1日に他界した。享年89歳であった。

 筆者は自宅の300m向こうが神奈川県という場所に住んでいるが、一応都民なので、石原さんといえばカリスマ性が強い東京都知事というイメージだ。刑事ドラマの「西部警察」も大好きだったので、石原裕次郎さんの兄という印象も多大にある。

 しかし、今年の3月で51歳になる筆者より上の世代の自動車趣味人にとっては、石原慎太郎さんは生粋のスポーツカー好きというイメージで、とくに1968年の参議院初登院時に愛車の「マツダ・コスモスポーツ」で行ってしまったことはパイセンたちの誰もが知るエピソードだといえよう(真偽不明だが、往時にマツダに圧力をかけ、部品を再生産させた……などというオモシロいウワサもあったそうだ)。

「東京レーシングカーショー」を主催したことも

 また、石原慎太郎さんが会長を務める「オートスポーツを楽しむ会」が、1968年から1973年まで東京・晴海で開催した「東京レーシングカーショー」のことを憶えている&行ってきたパイセンたちも多いはずだ。このモーターショーは、当時、盛り上がりをみせていたカーレースに関わる人たちがファンサービスの一環として実施したもの。レーシングカーやドライバーをもっと間近で見てもらいたいという想いから始まったのだという。

 記念すべき第1回目は78台のレーシングカーが展示され、2日間という短い会期だったにも関わらず6万2000人というスゴイ数のレース好きが来場したそうだ。

慎太郎さんが初めて買ったクルマ「トライアンフTR3」

 奔放的かつ行動的なブルジョア子弟を意味する、「太陽族」という流行語を生み出したことでも知られる石原慎太郎さん。「コスモスポーツ」だけでなく「トライアンフTR3」にも乗っていたらしいが、どうやら、この英国製オープンカーが初めて買ったクルマで、トライアンフTR3からスポーツカーライフをスタートさせたのだという。そのほか、「MG TFロードスター」、「メルセデス・ベンツ」、「ジャガー」、「モーガン」などにも乗っていたそうだ。

 トライアンフは戦前からバイクを造っていたメーカーで、1923年に軽量スポーツのイメージを前面に出したクルマで4輪に進出した。「トライアンフTR3」は、「TR=トライアンフ・ロードスター」の伝統を受け継ぐ2座スポーツカーである。

 往時のスタンダード・トライアンフ社による開発プロジェクトにより、まず、1952年にプロトタイプの「TR1」が発表された。主要輸出先として考えられたのはアメリカで、同国のスポーツカー・マーケットにおいて、「MG TD」と「ジャガーXK120」の間を埋める存在になることが目的だった。スタイルが好評で、市販を期待する声が高まったことを受け、スタンダード・トライアンフ社は1953年に「TR2」を発売。高性能にもかかわらず、安価だったため、市場から好意をもって迎え入れられた。

 ちなみに、プロトタイプとして終わった「TR1」は、わずか8週間で開発されたといわれており、操縦安定性などの問題が未解決で、そのままリリースできる状態ではなかった。そのため、約1年という月日が費やされ、「TR2」としてデリバリーされたのだ。晴れて登場したTR2は、ラリーや耐久レースにおいても好成績を収め、トライアンフは英国を代表するスポーツカーのひとつとして広く認知されることとなった。

 TR2のマイナーチェンジ版として1955年にリリースされた「TR3」は、より大型のキャブレターを採用することでエンジンをパワーアップし、ブレーキも強化された。外観上の変更点は、ノーズの先端にフロントグリルを装備したことだ。

 そして、1957年9月にマイナーチェンジ版である「TR3A」が登場。フロントグリルがワイド・タイプに変わり、それまではグリル面よりも少しだけ飛び出していたヘッドライトの位置が後退した。さらに実用的な改良として、それまでは無かったドアを開閉するためのアウター・ハンドルが与えられている。TR2、TR3は、ドアの内側の紐を引いて開けていたので、これは大きな進化だった。

 トライアンフTR3は外装と同じように内装もクラシカルで、旧き佳きイギリス車の雰囲気を楽しめるが、数あるヒストリックカーのなかでもとくにメンテナンスやドライブが容易で、なおかつ丈夫なので、ロングランもラクラク楽しめる。クラシックカーラリーに最適な定番モデルのひとつとして、以前からベテランのエントラントも積極的にトライアンフのTR2、TR3、TR3Aを愛用しているのは、そういうアドバンテージポイントがあるからなのであった。

慎太郎さんがもっとも愛したクルマ「マツダ・コスモスポーツ」

 世界初の2ローター・ロータリーエンジン搭載車としてクルマ好きを魅了した「コスモスポーツ」は、1967~1972年までの間に1176台が生産された。「NSUヴァンケルスパイダー」というロータリーエンジン搭載車の先達があったため、「2ローター・ロータリーエンジン搭載車としては世界初」という注釈が付いてまわるが、コスモスポーツはマツダの技術力の高さを全世界に証明したエポックメイキングなクルマである。

 小型、軽量でありながら高出力という、往時における理想的なパワーユニットをいち早く搭載した点がコスモスポーツの特徴で、1967年に登場した前期型(L10A)で110ps、1968年にデビューした後期型(L10B)で128psという最高出力を誇った。石原慎太郎さんが愛用していたのは後期型だったようで、息子のひとりが譲り受けたが、放置しているうちにボロボロになってしまったらしい。しかし、後年レストアされ、2019年に開催された車両展示イベントでその雄姿を披露していたようだ。

 2ローター・ロータリーエンジンがコスモスポーツの価値を高めていることは確かだが、時を経ても色褪せない未来的かつ美しいプロポーション、複雑な曲面を採用したモノコックボディ。さらに、2リッタークラスのレシプロ・エンジン・スポーツカーに匹敵する走行性能をサポートしたダブルウイッシュボーン+コイル、ド・ディオン式縦置半楕円リーフの前後サスペンションも、同車を語る際に忘れることができないポイントである。

 早々に実施されたマイナーチェンジによって後期型へと進化したコスモスポーツは、ホイールベースを150mm延長し、フロントグリルを拡大。動力性能が向上したことに伴い、トランスミッションが4速から5速となり、より一層スポーツカーらしい走りを披露できるようになった。また、後期型に進化したことに伴ないブレーキにサーボが付き、クーラーの装着も可能となったコスモスポーツは、「サバンナ」をはじめとする次世代ロータリーエンジン搭載車のデビュー後も月平均20台ペースで生産されたそうだ。

 類い稀なるドライビングプレジャーでオーナーになることを許された者を心底魅了したコスモスポーツだが、新車発売当時の価格が1960年代後半の時点で148万円だったこともあり、多くの人々にとってこの先進的なクルマは現実的なものではなかった。当時の大卒者初任給が2万6000円前後だったといわれているので、同時期に238万円で発売された「トヨタ2000GT」も含め、いかに高価なスポーツカーであったのかを窺い知れるだろう。そう、石原慎太郎さんのような有名人しか買えなかったのだ。

 現在もコスモスポーツは高価な旧車のひとつとして取り引きされているが、いま見ても未来的だと思えるエクステリアデザインは最高にカッコイイので、どこかで遭遇したら、そのスタイルのよさや軽快な走りを堪能してみるといいだろう。

モバイルバージョンを終了