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キャラベースの「イオタSVR」にサンバーベースの「コカウンタック」! ちっちゃい自作カスタム4台の完成度に衝撃

好きが高じて作ってしまった唯一無二の存在

 憧れのスーパーカーやテレビアニメに登場したクルマに乗りたいけれども、さすがに本物をゲットすることはできないよな……。頭のなかでそう考えつつも、心のなかで“本物が買えないなら自分で造るか……”と思い、驚くべきことに自作&プロに頼んで造ってしまった人たちがいる。ここではオーナーの並々ならぬ熱意のこもった愛車を紹介していこう。

スズキ・キャラベースのランボルギーニ・イオタSVR

 まず最初に紹介するのは、ランボルギーニ・イオタSVRのレプリカを造ってしまった金澤さん。住宅の外壁などを塗るペンキ屋さんを生業としていることもあり、持ち前の集中力と手先の器用さを活かし、スズキ・キャラをベースとしてイオタSVRに似せた唯一無二のレプリカを自作した。

「マツダ・オートザムAZ-1よりもスズキ・キャラ(CARA)のほうが20万円ぐらい安くて、しかもキャラの新古車がいっぱい流通していたんです。それで、AZ-1ではなくキャラを購入しました」と金澤さん。キャラを購入したことをコンピューターに強い友人に報告し写真を見せたところ、パソコンを駆使してフロントマスクをイオタSVR風にモディファイしたその写真データを戻してくれた。

 この出来事がきっかけで、金澤さんは本物が買えないなら自分で造ろう(!)とイオタSVRレプリカの製作を決意。当時フェラーリ288GTOのプロポーションも少しだけ気になっていたそうだが、初志貫徹でイオタSVRを造ることにした。

 金澤さんは現在60歳で、40歳になるまで「いつの日にかランボルギーニ・ミウラかイオタSVRを買おう」と本気で思っていたそう。小学生のときに好きだった1歳上の女の子の名前が“ミウラ”さんだったこともあり、ランボルギーニのミウラやイオタSVRは、金澤さんにとってヒーローであり、ヒロインだったのだ。

 40代の前半からステージ1と呼んでいる初期モデルを造り始め、リヤを延長してチルトするフロントカウルを持つステージ2を50歳のときに完成させた。ステージ1の製作は鈑金屋にオーダーし、ステージ2は自宅のガレージで自作。金澤さんはペンキ屋さんなので、ステージ2は自分で外装を塗っている。

 ちなみに、ステージ1の製作を依頼した鈑金屋はホンダ・ビートなどにも強いショップで、鈑金屋兼整備工場だったのだという。まず、友人がパソコンで製作してくれたイオタSVR風キャラの写真を見せたら「面白そうだね」と言ってくれたのでオーダーしたものの、8~9割ほど完成したところで作業がストップ。預けてから一年ほど経過していたこともあり、その状態で塗装してもらって引き上げてきた。

 リヤカウルまでチルトする現在のステージ3は52歳のときに完成したそうで、自作したカウルの製作期間はフロントが2年、リヤが2年半ほどかかっていたそうだ。

「ステージ2とステージ3のカウルは、全部自宅でコツコツ造ったんです。まず、発泡ウレタンを削って型を造って、FPRで形を決めて、表面を削っていったわけです。とにかく大変でした」と振り返る。

 こうして妥協することなく作り上げていったものだけに、プロポーションがよく、SSRのメッシュホイールを装着しているなど、カーマニアを唸らせるディテールを満載した夢のクルマがこの世に降臨した。まじまじと見ると、車体のセンター部分にベース車のキャラであったことを窺い知れる名残がある点がまた面白い。

 エンジンは700ccにボアアップされているが、もちろん、12気筒エンジンを積んでいるわけではないのでファンネルはダミーだ。 紆余曲折の末に完成したので、ステージ3ができあがったときの思いは「オレ、よくやったなぁ」というものだったという。そしてなにより、イオタSVRを見てくれた人の感想で一番多いのが「これ、素人が作ったの?」というもの。「そうです、素人の私が」と伝えた際に金澤さん的にもっとも嬉しいリアクションは「うっそぉ~、DIYなんだね」という感嘆の言葉とのこと。

 まだ手を加えたい部分があるそうだが、それをやり始めると乗れなくなるので、やらないそうだ。イオタSVRの製作で燃え尽きたこともあり、他車を造る気力は残っていないとのことだった。これからも金澤さんとイオタSVRのレプリカは、これまた自作したガレージを秘密基地としながら、世のクルマ好きを歓ばせていくことだろう。

トヨタMR−Sベースのランボルギーニ・カウンタックLP500

 続いて紹介するのは、シンジさんが愛用しているランボルギーニ・カウンタックLP500レプリカの話だ。シンジさんは1966年(昭和41年)生まれで、スーパーカーブームのときはイエローのランボルギーニ・カウンタックLP400のことが好きだった。それはちょうどカウンタック LP400Sが出たころの話で、シンジさんは小学校5年生ぐらいだった。

 時は流れ、1987年の第27回東京モーターショーでトヨタAXV-II(のちのセラ)、2年後の第28回東京モーターショーでマツダAZ550スポーツ(のちのAZ-1)が発表。シンジさんはAZ-1の発売を待って1992年に新車で購入した。このときに買ったブルーのAZ-1を現在も所有している。

 ほかにもシンジさんはカウンタックをデザインしたイタリアのカロッツェリアである、ベルトーネが外装の意匠を手がけたシトロエンXMのことも気になっていた。当時、新車は高価だったこともあり購入せず、1997年にユーズドカーを40万円で購入して以来、心底惚れてしまったXMはユーズドカーを3台乗り継いできている。

 マツダ・オートザムAZ-1とシトロエンXMの2台態勢を維持しつつ、2000~2003年ごろにカウンタックを買おうかなと、ふと思ったことがあるそう。だが、カウンタックLP400の売り値はその当時ですでに2000万円と高額。さすがにその金額を用意することはできなかった。

「本物はすごく高価なので、レプリカもいいかな? と思ったんです。当時のレプリカって、アメ車がベースだったので切った貼った感がありました。でも、ニュージーランドにあったカウンテス社(キットメーカー)のカウンタックはホンモノに似ていて憧れていたのですが、製造中止になってしまったんです。昔から通っている懇意にしていたショップから、オリジナルで新たにトヨタMR-Sベースで造るようになると言われ、オーダーしました。でも、多くの人は1.8Lエンジンを積んでいるカウンタック・レプリカなんて、あり得ないんでしょうね。とくに海外の人はエンジンのパワーが重要。140psしかないエンジンなんてナンセンスだと思っているかもしれません」

 そう話してくれたシンジさんは、どうせオーダーするならプロトタイプのカウンタックLP500がいいと思い、ショップにLP500はできますか? と聞いてみたら「できる」と言われたので、2017年6月にMR-SベースのLP500をオーダー。AZ-1は発売まで3年待ち、XMは5年待って買い、カウンタックは46年経って注文したのだ(レプリカだが)。

「LP500は、ショーモデル兼走行テスト車だった本物がクラッシュテストにも使われてしまい、もはやこの世に残っていないので、1/1スケールで存在している場合、そもそもレプリカなんですよね。本物は5Lエンジンを積んでトラブルが出て、既存の4Lエンジンを載せたりもしていました。走行テストでは、ミラーとワイパーを付けたりし、ダクトも付けていたみたいです。どうやらクラッシュテスト時まで、全部付いていたようです」

 思った以上に資料集めなどに時間がかかったため、2019年のお正月から造り始め、同年の9月に完成。ランボルギーニが公開している数枚の写真とプラモデルやミニカーを作っている人たちの資料しか存在していないので、1/24スケールのプラモデル制作と同じ作業を実践していった。

「ショップの人と話した結果、LP400レプリカ用の型をベースに、それを修正しながらLP500に化けさせていきました。問題はLP400からLP500にどう変えるか、ということですね。外装のディテールは、写真とミニカーを参考にして合わせてもらいました。プロモデラーによるLP500の制作過程を拝見したら、同じことをやっていましたね。こだわったのは、潜望鏡とインテークです。LP400との大きな違いは、そのぐらいですからね。LP400の潜望鏡が好きなんですよ。潜望鏡、エンジンフード、トランクフードという3つの台形によって構成されているリヤのスタイルが好きです」

 外装については「ボディカラーが薄い色の場合、台形のなかでブラックになっている部分がすごく目立って活きるわけです。そのシマシマ加減がスーパーカーカードで見るとカッコよかったですね。テールランプはLEDで、自分でイラストを描いて造ってもらっています。ヘッドライトのなかは、往時の写真がないのでシルバーにしてみました」とも話してくれた。

 制作スタッフにできるだけ負荷がかからないように妥協したという内装は、LP500のディテールを追求するとキリがないので、カウンタックの市販バージョンを参考にしているそうだ。ステアリングホイールはメーターの視認性をよくするためにヌッチオ・ベルトーネという名のアイテムをチョイス。スイングアップドアの構造などもLP400レプリカをベースにしている。ガラスはハメ殺しとし、パワーウインドウ機構をなくし軽量化。できるだけ低重心にしたほうがいいからだ。

 窓はモールを貼って再現してあるだけだという。視界は普通のクルマの1/3程度しかなく、下も信号も見えない……。停車状態から公道に斜めに出るときや側道から本線に合流するときも、ほかのミッドシップ車と同じように後方をまったく確認できない。そういったこともあり、後方確認用のカメラとバックランプをナンバープレート付近に付けている。

 そのディテールやスペックを列記すると、MR-SとLP500のホイールベースは偶然にもまったく同じで2450mm。LP500レプリカの全高は1050mmだ。4本出しマフラーはワンオフ。サスペンションはMR-Sのままなのでマクファーソンストラットとなる。70扁平タイヤとマクファーソンストラットなので、車高を下げきれていないが、本当はあと5cmぐらいフロントを下げたいとか。ミラーは、ビタローニのセブリング・レプリカだ。

 そして、本物のLP500と同じようにフロントバンパーには長方形の穴を開け、カウンタックという車名を表示している。ちなみにフロントフード内にはパワーステアリングオイルとウォッシャー液の補充口がある。ホイールはカンパニョーロのリプロダクションで、じつはこれも高価なのだという。14本スポークホイールになっているが、本物は20本スポークで、前後の形状が異なる。

 猛牛のマークを留めているリングは1個1万2000円もしたとか。エンジンは、排気量1.8Lの1ZZだ。FRP製ボディで、車重は1050kgとなる。

「ほかの何にも似ていませんからね。LP500を見ると、クルマ好きであればあるほど存在するはずがないものがココにある、と驚いてくれるのがいつものリアクションです。スーパーカーブーム全盛時に一世を風靡したコンセプトカーが街なかに現れることはないので、そこへの驚きもありますね。

 自動車趣味人ではない普通の方々は、面白いことにディアブロもアヴェンタドールも全部カウンタックだと思っているんですよ。日本人はカウンタックが大好き。それに尽きると思います。ぼくの周りの人たちも、みんなカウンタックが大好き。このクルマは本当に特別な存在です」

スバル・サンバーベースのサンバルギーニ・コカウンタックLP360

 続いて紹介するのは、群馬県で自動車整備工場を営む福田博之さんが自作してしまったサンバルギーニ・コカウンタックLP360とマッハ号が完成するまでのエピソードだ。

 お客さんの下取り車だった360cc/2ストロークエンジンのスバル・サンバートラックをコカウンタックに変身させた福田さん。以前、ホンダ・S600のフロントフェイスをホンダ・トゥデイのモノに付け替えるというユニークなチャレンジをしたことでも知られる自動車趣味人だ。

 コカウンタック製作のきっかけとなったのは、1998年に訪れたラスベガスで開催されている世界最大規模の自動車パーツ見本市「SEMAショー」で、“自由にカスタマイズされた数々の車両たち”との出会いからなのだという。シボレー・コルベットやT型フォードなどのカスタマイズカーを会場で見た福田さんは「こんなに自由に造っていいんだ、自分も造りたいモノを造ればいいんだ」と衝撃を受けたらしい。

 当時、ちょうど福田さんのお店にはお客さんの下取り車だった360㏄/2ストロークエンジンのスバル・サンバートラックがあった。「このクルマで小学生のときにスーパーカー展示会で見た憧れのランボルギーニ・カウンタックを作るとしたら、どうなるだろう?」と思い、それを実行することにした。

 せっかく造るなら軽規格で維持しやすく、サンバートラックのようなフレーム車はエンジンや足まわりがフレームに付いていて、製作中に移動しやすいだろうな、とも考えたらしい。

「じつはそのころ、街なかで軽バンにスーパーセブンを描いたクルマを見たんです。当時の愛車だった日産・バネットを見たらちょうどクルマが描けそうな面積だったので、私も大好きなカウンタックをエアブラシでサイドボディに描いてみたら乗れそうな大きさであることが分かりました。これならイケると思い、いよいよ造り始めました」

 それ以来構想を重ね、仕事の合間を縫いながら作業して2002年6月にコカウンタックが完成した。

 カタチがLP400S風(エアロパーツが装着されている1978年以降のモデル)になっているのは、造る際の見本として、福田さんがたまたま売っていた1/18スケールのブラーゴ製カウンタックLP500S(1983年に登場した5リッターモデル)を買ったからだ。それでも「リヤウイングが無いほうがカウンタックらしかったので、外しました」とは福田さんのコメントである。

 どうやって造ったのか? を、もっと詳しく記すと、まずベースとなるサンバートラックのヘッド部と荷台を取り外し、フレームの上にパイプでボディのアウトラインを組み立てていった。

 その後、ラス網を張ってボディの面を出してFRPを上に貼り付け、パテ成型した。ボディは既述したようにミニカーを採寸して導き出したもので、図面に書かれた数字を13倍するとサンバルギーニの大きさになるように設計。特徴的なシザードアは、本物のドアヒンジを見たことがなかったので、モデルカーを参考として開閉機構を考えていった。左側だけだが、ちゃんと上に跳ね上がるようにしている。

 リトラクタブルヘッドライト・リンクは、最初、開くときにリッドとライトが別々に動いてしまい、それをワンモーションでできるようにするために1カ月ほど悩んだらしいが、結局、偶然できあがったのだという。リトラクタブルヘッドライトを閉じたとき、タイヤに干渉しないようにすることにも福田さんは注力。こちらの問題も見事にクリアしたのであった。

 ワンオフで作った右シフト仕様のマイクロ・スーパーカーは、友人が作ってくれたというオリジナルのエンブレム(雄牛の代わりにサンバー=水鹿をあしらったモノ)を持ち、センターステアリングのシングルシーターとなっている。造り始めのころこそ「リヤカーでも造ってるんか~」などと少々小バカにされていたそうだが、いざ完成すると、みんなビックリして「よくできたね」と称賛してくれたらしい。福田さんの奥さまも、長いこと時間がかかったので、完成してホッとしたそうだ。

マツダ・ロードスターベースのマッハ号

 福田さんは、もう1台、1967年に放送が開始された往年のテレビアニメ「マッハGoGoGo」に登場したあの「マッハ号」まで自作している。マッハ号に関しては、福田さんが小学生のころにテレビアニメでマッハ号を見て、それ以来ずっと憧れ続け、いつか欲しいと思っていたことが製作のきっかけなのだと言う。

 コカウンタックの製作時と同様に、マッハ号の石膏原型は550ccサンバートラックのフレームを使っていた。ボディは驚くことにプラモデルから寸法を採寸し、原型を造っているという。

「プラモデルを引き伸ばした形はとても貧弱だったので大きなダイキャストモデルのボディラインを参考に自分で盛ったり削ったりしながら決めました」とは福田さんのコメント。だが、石膏原型が完成するまでにとても時間がかかってしまい、このぶんでは自分が生きているうちにマッハ号を完成させられない……と思い始めた。そこで福田さんはフレームから造るのではなく、FRPボディを車体に被せる方法に変更した。

 福田さんはプラモデルから出した寸法を計算したところ、FRPボディの大きさがお客さんの代車に用意していたユーノス・ロードスターにピッタリということが判明。オープン2シーターでちょうどいいなと思い、これをベース車両とすることが決定した。

「初めて挑んだ石膏原型造りとFRP雌型造り、それとFRPボディとベース車を合体させる際の帳尻合わせ、苦労しましたね」と、懐かしそうに話してくれた福田さんは、このようにも振り返ってくれた。

「途中、FRP製作がうまくいかず、半年ぐらい作業が止まったままのときがあったりしましたが、2002年に製作を始めて完成させるまでに15年(2017年完成)ほどかかりました」

 2017年に完成したときの周囲からの感想は「今度はマッハ号を造ったのか!」というものだったが「50歳以上じゃないと、こんなクルマは知らないよ~」というものも多かったという。苦節15年という年月をかけて製作されたマッハ号の完成度も高く、サンバルギーニ・コカウンタックLP360と同じように、完成以来、さまざまなイベントでギャラリーを楽しませている。

 今回紹介した4台は、どこかのイベントで拝見できるかもしれない。見かけた際にはそのディテールをじっくり観察してみるといいだろう。

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