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ホンダ・コニリオって何もの? 激レアな「エスハチ」ベースのレーシングマシンの全容

ふたりの思惑が合致して登場したマシン

 SUPER GTレースにおいて、メーカーが販売する市販レーシングカーを買ってきて、いわゆる“吊るし”の状態でレースを戦うFIA-GT3カテゴリーのマシンを相手に戦っているGT300/GT300MC車両は、自らが造り上げて戦うことができるカテゴリーとして注目を集めています。

 1963年に鈴鹿サーキットで開催された第1回日本グランプリで本格的に始まった国内の近代モータースポーツですが、黎明期には市販のレーシングカーなどあるはずもなく、すべてのレーシングカーはまだまだプライベートが手作りするのが主流となっていました。今回はホンダ・スポーツ800、愛称“エスハチ”をベースに製作されたレーシングカー、コニリオを振り返ります。

皆が集まってコンストラクターとなり手作りで始めたレーシングカー製作

 手作りマシンの草分けとなったのは、のちに国内屈指のコンストラクターとなる童夢を設立した、林みのるさんが中心になって製作した“カラス”と呼ばれるレーシングカーでした。軽量化と空気抵抗の低減がおもなテーマでしたが、大いに効果もあったようで、1965年の5月に鈴鹿サーキットで行われた第2回クラブマンレースにて浮谷東次郎さんのドライブで見事な優勝を飾っています。

 “カラス”の活躍に触発されたかのように、これ以降は手作りのレーシングカーが続々と登場。ホンダの創業者である本田宗一郎さんの長男、本田博俊さんが手作りしたホンダ・カムイは、ボディカウルだけでなくシャシー(鋼管スペースフレーム)から自作したまったくのオリジナルでした。矢吹圭造さんのドライブで鈴鹿のレースで活躍しています。

 “カラス”やホンダ・カムイは完全なワンオフでしたが、やがて1970年代に入るとレーシング・スポーツやフォーミュラのレースも盛んになり、市販レーシングカーも続々登場してきました。レーシングカー・コンストラクターも数多く誕生し、国内レース界は最初の黄金時代を迎えることになります。そんな市販レーシングカーの先駆けとなったのが、レーシング・クォータリー(RQ)が製作したコニリオ。ちなみにコニリオ(Coniglio)はイタリア語で野兎のことです。

 “カラス”はエスロクのボディを改造したもので、一方ホンダ・カムイはフレームからオリジナルで製作していましたが、コニリオはエスハチのシャシー(ラダーフレームに前後サスペンションを組み込みエンジンを搭載した状態)に架装するボディ・キットでした。オープン2シーターのレース仕様だけでなく、2シーター・2ドアクーペのコニリオ・ビアンコというロードゴーイング仕様もラインアップされていました。

 デザインを手掛けられたのは工業デザイナーとして活躍された濱 素紀(はま・もとき)さん。ふとしたことで知り合ったRQの山梨信輔さんとは、高校の先輩後輩の間柄ということがわかって話も大いに盛り上がったそうです。そうしていくうち、いつかはエスハチのシャシーでカスタムカーを創りたいと思っていた濱さんと、自分たちでレーシングカーを創ってレースに出たいと思っていた山梨さん、ふたりの思惑が合致、プロジェクトが始まりました。

エスハチのシャシーにFRP製の軽量なボディを架装したコニリオ

 先に触れたようにコニリオは、エスハチのシャシーに架装するボディキットです。なのでシャシーに関してはベースのエスハチそのままで、ラダーフレームに組み合わせるフロントサスペンションはトーションバーで吊ったダブルウィッシュボーン式独立懸架。

 リヤサスペンションはエスハチの前期型と中期/後期型で違っていて、前期型はチェーンケースを兼ねたトレーリングアームをコイルスプリングで吊る独立懸架。中期/後期型は4本のトルクロッドとパナールロッドで位置決めしたリヤアクスルをリーフスプリングで吊るリジッド式でした。

 コニリオの1号車、通称“MK-Ⅰ”には後者が選ばれていました。言うまでもなくレース仕様ということで、サスペンションは強化。エンジンについては、エスハチ用の791ccツインカム直4のAS800E型をベースに、レース出場に向けては鈴鹿サーキットにあったRSCでチューンした850cc仕様を搭載していました。

 デビューレースとなった1968年11月の富士フェスティバルではセッティングを進めるどころか、いくつか初期トラブルも見つかり勝負は度外視の、まさに実戦テストとなったようです。それでもレースを走り切った甲斐もあり、問題点を洗い出しました。

 セッティングも進めて1カ月後に同じ富士スピードウェイで開催された参戦2戦目の富士チャンピオンレースでは、公式予選でトップタイムをマークしてポールポジションを奪い、決勝レースでもトップを快走。一次トップ逆転されたものの、相手のトラブルもあって再逆転。2レース目で優勝を飾ることができていました。

 コニリオは結局、クーペも含めて10台が製作されています。その多くが各地のレースで活躍していて、残念ながら記憶は確かではないものの、高校生のころに中山サーキットで走っているのを見た憶えがあります。残念ながら整理が行き届いていなく、写真がどこにあるのかわからないため、ここでご紹介することもできません。マシンはノーズ部分に手が加えられ、ボディパネルも一部はアルミに置き換えられていたような気がします。

 またロードゴーイング仕様のコニリオ・ビアンコですが、1970年の第3回東京レーシングカーショーに白い個体が展示されていたようですが、石川県の小松市にある日本自動車博物館には赤い個体が収蔵展示されていました。

 もう10年近く前になりますが、同館を訪れた際に、広いフロア中央の、一段高いステージに展示されていて、遠目にそれと確認してとりあえず写真にも納めたのですが、これがレーシングカーショーに展示されていた白い個体を塗り直したのか、まったく別の個体なのか、詳しいことを確認しないまま時が流れてしまいました。

ホンダコレクションホールに収蔵されているコニリオは……

 ここからはまったくのプライベートなエピソードになりますが、ホンダコレクションホールに収蔵されているコニリオ……レース仕様のスパイダーは、じつはわが家にあったエスハチがベースになっています。いやなっているそうです。

 もうだいぶ昔のことになりますが、取材でツインリンクを訪れた際に、取材でお世話になる知人から「了ちゃんのエス、コニリオになってるよ!」と驚く情報がもたらされたのです。「!?」。確かにわが家にあったエスハチは、電気系が不調で手に余しかけていて、家に置いておいても朽ち果てていくだけだし、コレクションホールに引き取ってもらったら綺麗にレストアしてくれるんじゃないか、などと思って持って行ってもらったのですが……。

 これじゃあまるで、病弱な娘を入院させてドナーを探してもらっていると思ったら、何といつの間にか娘はアスリートに変身してオリンピックに出ていたのをテレビで初めて知ったようなもの。驚いたなぁ、もう。アスリートになった彼女とはまだ対面していませんが、コロナが明けたら訪ねてみたいです。

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