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「80点主義+α」はいまも生きている! 初代カローラの偉大さが改めて考えると衝撃的だった

時代の基準が満たされた性能や内容が求められたカローラ

 トヨタ・カローラは、1966年(昭和41年)10月に誕生した。その半年前に、日産サニーがデビューしている。以来、カローラとサニーは日本を代表する大衆車として競合し、国内外を問わず多くの消費者に自家用車を持つ喜びを提供し続けてきた。

 初代カローラの開発主査が長谷川龍雄であり、開発の思想として掲げた「80点+α主義」の言葉が今日まで伝えられている。

先に登場したパブリカは価格を重視し装備が簡素化されていた

 長谷川は、カローラの前にひとまわり小型のパブリカの開発も担った。豊田英二技術専務(のちに5代目社長)の発案によるパブリカの開発は1954年に始まっていたが、技術的な困難に立ち向かうため長谷川が途中から開発責任者として構想を練り直すことになった。

 そして1961年に生まれたパブリカは、実用性や耐久性を満たした合理的な小型車だったが、一方で、廉価で手に入れやすくするため、当初はラジオや暖房、燃料計やフェンダーミラーさえなかった。かつて、フォルクスワーゲンのタイプ1(通称ビートル)も、燃料計がないなど徹底した合理性が図られた。だが、馬や馬車の時代から続くクルマが日常的な移動手段と考えられた欧州に比べ、日本ではまだ自家用車は豊かで贅沢な気分を味わえる付加価値商品であったため、装備の貧弱さにより二の足を踏ませた。

 そうした体験を踏まえ、初代カローラを開発するに際し長谷川主査が唱えたのが「80点+α主義」だ。その意味は、あらゆる面で時代の基準が満たされた性能や内容であると同時に、魅力的な側面を併せ持たねばならないということだ。

印象的な赤い内装も用意された初代カローラ

 たとえば、性能面では競合車のサニーに比べエンジン排気量を100cc大きい1100ccとした。そして広告宣伝でも「100ccの余裕」の言葉を使った。内装面では、白の車体色に赤の内装という華やかさを与えた車種も設定した。大衆車といえば、パブリカもサニーも、実用性を重視した装備だったが、高級車を思わせる赤の内装は、今日見てもハッとさせられる艶やかさがある。

 のちに、2ドアクーペを車種に加えるが、サニーが単にサニー・クーペと名付けたのに対し、カローラはカローラ・スプリンターという特別な車名を与えた。その後、カローラとスプリンターという兄弟車に車名が分かれるが、当初はカローラのクーペがカローラ・スプリンターであったのだ。

 2代目カローラでは、DOHCエンジンを搭載したレビンが登場する。高性能エンジンの搭載もさることながら、より幅の広いタイヤを装着するため市販車として前例のなかったレース車両と同様のオーバーフェンダーを装着して現れたのである。それは当時衝撃的な出来事だった。

突如として意表を突く価値を生み出すトヨタ

 ある時期、トヨタ車については80点という言葉ばかりが先行し、悪くはないが面白みのないメーカーとの印象が語られたが、機能や性能あるいは耐久・信頼性において時代の基準を満たし、それが80点という高い合格点を達成していれば大した製品だ。そしてまた、消費者を魅了する取り組みも行っていた。

 たとえば、かつてのクラウンの外観造形は、大胆な見栄えで歴史を重ねてきた経緯がある。初代セリカは、のちにスぺシャリティカーという分野を切り開くきっかけにもなり、購入の仕方でも消費者の好みに応じてエンジンや装備を選択できるようにするなどに挑戦した。

 初代エスティマは、それまでのワンボックスカーの概念を超え、エンジンを横に寝かせて搭載し室内を広くする試行錯誤を行った。それはミニバンが登場する前の時代だ。1997年には、世界初のハイブリッド車プリウスを生み出した。

 そのように、トヨタはあるとき突如として意表を突く価値を生み出し、世に問うてくる。その原点は、初代カローラの「80点+α主義」にあるのではないかと思う。

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