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売れなかったが日本の自動車市場にデザイン革命を巻き起こした! スカイラインスポーツの功績とは

プリンス・スカイラインスポーツのフロントスタイル

元祖オラ顔「チャイニーズアイ」採用のスカイラインスポーツ

 スカイラインといえば、クルマ好きならば誰もが1度は耳にしたことがある日産を代表するスポーツセダン。サルーンとして十分な基本性能を兼ね備えながら、走ればスポーツカーを凌駕する。そのようなイメージを持っている方が多いのではないだろうか? ただし、それは1963年に登場した2代目のS50系から。

 1964年の第2回日本グランプリでわずか1周ながら、本格レーシングカーであるポルシェ904の前を走った。この出来事が、現在に継承されるスポーツセダンとしてのイメージを定着させた。俗にいう「羊の皮を被った狼」の誕生である。

初代はスポーツセダンではなくアメ車風味の高級セダンとして誕生

 では、ルーツとなる1957年4月登場の初代プリンス・スカイラインはどのようなクルマだったかというと、トヨタ(トヨペット)・クラウンと真っ向勝負する6人乗りの高級セダンであった。テールフィンを持ったリヤビューは当時自動車業界をリードしていたアメリカ車の縮小版といったイメージで、2代目以降のモデルとはまったく異なる。ちなみに同じシャーシを持つ兄弟車がグロリアで、スカイラインの上級車として1.9Lのエンジンを搭載し、3ナンバーの車格が与えられた(1960年までは1.5L以上が3ナンバーとなった)。

 しかし、1960年以降は5ナンバーの規格に変更あり、2L以上が5ナンバーとなったため、グロリアと同じ1.9Lエンジンが搭載されたことでグロリアとの棲み分けが微妙になってしまう。そこでスカイラインは2代目で排気量、ボディサイズともにダウンサイジングされ、高級セダンとしての初代スカイラインはグロリアに吸収される格好になった。

スカイライン初のスポーツモデルはイタリア人のミケロッティがデザイン

 このように2代目以降のスポーツ路線ではないポジションにあった初代だが、スポーツモデルも存在した。それが1962年に登場したプリンス・スカイラインスポーツで、クーペとコンバーチブルの2モデルが用意された。ただし、2代目のようなモータースポーツ直系のハードな志向ではなく、ラグジュアリー路線の高級スポーツであったが、2代目とは異なるカタチで日本自動車史にしっかりと爪痕を残している。

 誕生のきっかけは1955年、当時プリンス自動車の取締役設計部長である中川良一氏が欧米の自動車産業の視察旅行で見た、イタリアのカロッツェリアによるスポーツカーの美しさに感銘を受けたことにある。その後、同社のデザイナーをイタリアに留学させるとともに、イタリアのカロッツェリアにスポーツカーのデザインを発注することを決めた。白羽の矢が立ったのが「ジョバンニ・ミケロッティ」で、同氏にデザインを、現地のコーチビルダーに2台のプロトタイプの製作を依頼。それがスカイラインスポーツ誕生へと繋がっていく。

1960年に日本車として初めて海外でワールドプレミアを実施!

 ベースとなったのはスカイラインではなく、より大きな排気量を搭載したグロリアで、1960年にまず2台分のシャシーをイタリアに送りプロトタイプを製作。そして、同年11月の第42回トリノショーでワールドプレミアを果たしている。この海外でのお披露目は日本車としては初の試みであった。

 デザインは「チャイニーズ・アイ」と呼ばれる斜めにツリ上がったややアクの強い丸目4灯のヘッドライトが特徴。ホイールベースはグロリア/スカイラインと同じだが、前後のホイールベースが延長された伸びやかでクリーンなスタイリングは、ドアの後ろでキックアップすることで躍動感も演出している。そのほか、キャビンに配されたピラーは細身で繊細に見せるなど、当時の日本車にはなかった斬新なデザインは1961年の第8回東京モーターショーでも話題となった。

ボディはすべてハンドメイドながら豪華な装備と高性能で人々を魅了

 発売は1962年で、プロトタイプと同じくクーペとコンバーチブルの2タイプをラインアップしたプリンス・スカイラインスポーツ。ボディの製造はすべてハンドメイドで、職人をイタリアからプリンスの工場に招き、指導を受けながらの作業であった。発表から1年以上遅れての発売となったのは、生産体制を整えるために入念な準備が必要だったからだ。そのため販売価格はクーペが185万円、コンバーチブルが195万円と、プリンスのトップブランドであるグロリアの上級車が110万円台であったことを考えると、いかに高額だったが分かるだろう。

 エンジンはグロリア用の1.9Lを搭載し最高出力94㎰を誇った。これは当時の国産車としては最強で、1.4tに迫る車重ながら4速コラムMTを駆使すれば150km/hを記録するなど、GTカーとしては十分な性能を兼ね備えていた。内装もほとんどが専用品で、シートには本革を採用するなどラグジュアリースポーツに相応しい豪華絢爛なものであった。また、その高いパフォーマンスからモータースポーツに参戦しているが、目立った記録は残せていない。

日本のデザイン史の転機となったエポックメイキングなクルマ

 最終的にはコスト高であったことや、ベースのグロリアが1962年10月にフルモデルチェンジしたこともあり、約60台(クーペは35台、コンバーチブルは25台)を販売しただけで生産終了。北米への輸出も検討されていたらしいが、その望みは叶うことはなかった。

 後継モデルも生産されることもなく、1代限りとなったスカイラインスポーツだが、カロッツェリアの技術を習得できたことはデザイン、ボディメイクに生かされたこともさることながら、デザインという点で国産他メーカーに強く影響を与えている。その証拠にスカイラインスポーツの登場以降、各メーカーがこぞってイタリアのカロッツェリアにデザインを依頼し、学んだことでモノマネではない独自のカーデザインが開花していくきっかけとなった。

 商売的には失敗であったが、マイカーがまだ夢だった時代にパーソナル性の強いデザインを提案したスカイラインスポーツは、日本の自動車史におけるエポックメイキングな1台であったことはまぎれもない事実である。

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