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やっぱり昔のフランス車はぶっ飛んでる! 3座な上に世界初のミッドシップ市販車になるはずだったヴィミーユがハンパない

フランス車の歴史のなかで知る人ぞ知る「ヴィミーユ」

戦後のスポーツカーの歴史を変えていた可能性大

 昔に比べたらずいぶん、フランス車も日本でフツーの選択肢になって増えてきた。

「でもフランス車乗りって、ヘソ曲がりかドイツ車が買えない一部の変〇さんでしょ?」

 いやちょっと待て。じつは昔っからインターナショナルで、キワッキワまで攻めたエリート主義的アイデアを、なんとかデモクラタイズ(民主化、広めること)して大量生産ベースにのせんと、使命感とヤマっ気で突っ走るのがフランス車の常。当たれば新時代を先駆け、後で振り返れば名作……もあれば、道半ばで大ゴケしたけど味わい深さは格別。それがフランス車の特徴と醍醐味だ。前者の例は「シトロエンDS」や「アルピーヌA110」、ルノーやプジョーの歴代小型ハッチバックだろうが、今回は悲劇的な大ゴケの1台、だが戦前と戦後の自動車史を股にかけた野心作、「ヴィミーユ」を紹介しよう。

戦前に一世を風靡したフランスの名ドライバーが考案

「ヴィミーユ(Wimille)」とは戦前のフランス人の名ドライバー、ジャン・ピエール・ヴィミーユのこと。1906年のパリ生まれで、どのぐらい凄かったかといえば、22歳ごろからレースを始めて1932年にまずフランスGPで勝利、1937年にはル・マン24時間を「ブガッティ・タイプ37」で制覇し、当時の平均速度(アベレージ)世界記録をレース中とモンレリーのテストコースの双方で塗り替えた。

 1939年には2度目のル・マン出走で2度目の優勝を勝ち取り、このときもブガッティ・タイプ37を駆って、組んでいたもうひとりのドライバーはピエール・ヴェイロン。W16クワトロターボの最高速400km/hオーバー車、あの「ヴェイロン」の由来、その人だ。いずれヴィミーユは当代随一の呼び声高いドライバーとして、あのファン・マヌエル・ファンジオも手本にしたと言及したほど。戦後にF1が世界選手権として始まる際には、ドライバーズ・チャンピオンの最右翼とされていた。

時代のはるか先をいくマシンはフォードV8搭載

 そんなヴィミーユは、戦後に自動車がやがて大衆に爆発的に普及すると予想し、量産を前提に考案した。それが彼の名をとった「ヴィミーユ」というGTカーだった。3人乗り前席の中央がドライバーズシートで、その背後にフォード・ヴェデットのV8エンジンをミッドマウント。鋼管チューブラーフレームにコンパクトで空力を意識した水滴型ボディを採用、Cd値は驚異の0.23だったという。いかにも玄人考えの、居住性も運動性能も重視した一台だった。

 あの当時、大量生産ノウハウに秀でたメーカーといえばフォード。当代一流のレーサーが考案したこのモデルを生産に移す契約を、フォードはヴィミーユと結び、プロトタイプは1948年のパリ・サロンにてフォード・ブースで出展された。

世界初のミッドシップ市販車となるはずだった

 戦前にもアルミニウムでスーパーレジェーラ工法を採用したツーリング社のアルファロメオやBMWはあったものの、鋼管チューブラーフレームを量産車のボディ・アーキテクチャー技術として用いる、そんな考え自体が進歩的だった。

 それを「メルセデス・ベンツ300SL」が実現して登場したのは1954年。戦前の「アウトウニオンGPカー」が先駆けたものの、ミッドシップはF1でさえ1957年の「クーパー・クライマックスT43」が初採用例で、初のミッドシップ市販車は1962年登場の「マトラ・ジェット」を待たねばならない。いかにヴィミーユが一足飛びに前衛かつ斬新だったか、うかがい知れるし、もしこれが実現していたら、クライスラーV8を積んだラグジュアリー・フレンチGT「ファセル・ヴェガ」はどうなっていたか。

まさかの悲劇で市販計画はお蔵入り

 ところが年明け1949年1月のブエノスアイレスGPで、ジャン・ピエール・ヴィミーユは「ゴルディーニ・シムカ」で練習走行中、事故死してしまう。戦前に乱立していたグランプリの統一レギュレーションが策定され、フォーミュラA次いでフォーミュラ1の名称が出来上がり、1950年からシリーズ戦開催が決まっていた矢先だった。フォードはヴィミーユ市販計画を躊躇し、3台もしくは4台のプロトタイプが製作されたあと、最終的に破棄された。

ヴィミーユの薫陶を受けたデザイナーがドイツの名車を生んだ

 だがヴィミーユと組んでプロトタイプを製作した、元ドライエのデザイナーにしてインダストリアル・デザイナー、ピエール・シャルボノーのスタジオでインターンをしていたポール・ブラックという青年は、その手腕を見出され1957年から10年間、メルセデス・ベンツでデザイナーとして活躍。「600リムジン」やパゴダこと「230SL」、Eクラスの元になった「W114」を世に送り出したあと、BMWのチーフデザイナーとなりE12からE24、つまり初代5シリーズから6シリーズのすべてを手掛けた。

 ようは巷でこれぞドイツ車! を代表するかのような歴史的モデルは、間接的ながらヴィミーユの薫陶を受けたフランス人デザイナーの手で描かれたのである。

 ちなみに現在のフランス車として、「DS 3クロスバック」に「イネス・ドゥ・ラ・フレサンジュ」の名を冠した限定モデルがあったが、ヴィミーユの奥方は故クリスティアーヌ・ド・ラ・フレサンジュ、元スーパーモデルの父の従妹にあたる。いずれ、ヴィミーユと名づけられたこれらの奇妙なプロトタイプは、もしかしてブガッティが「ヴェイロン」と「シロン」(ルイ・シロンも戦前からブガッティ・ドライバー)以外にも候補として検討しつつボツにしたかもしれない、それほどのビッグネームに由来するのだ。

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