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スバルも三菱もトヨタもいいけど「ラリーといえば日産」だった! いち早く世界で闘った圧巻の参戦車

日産のラリーカー

いち早く世界の舞台で本格的に戦った日産

 今年は秋に日本ラウンドが予定されていてファンの関心も高まっている世界ラリー選手権(WRC)ですが、日本勢としてトヨタの活躍が期待されるところです。そしてWRCと言えばトヨタや三菱、SUBARUの活躍が思い起こされますが、海外ラリーで活躍した国産車の先駆けと言えば日産です。まだWRCが制定される前の60年代から、灼熱の大地を駆けるサファリラリーで活躍していた日産の、世界ラリーでの戦績を振り前ります。

クルマを鍛えるために海外ラリーに参戦

 日産が、初めて海外ラリーに挑戦したのは1958年のこと。選んだイベントはモービルガス・トライアルと銘打ったオーストラリア大陸一周ラリーでした。前年に、トヨタが招待されてクラウンで参戦していたために、国産車としての初参戦とはなりませんでしたが、当初から日産車と自分たちのレべルを確認するため一番過酷なイベントに、と選んだのでした。

 2台のダットサン210で挑んだ結果は、2台のうち1台はリタイアしたものの、もう1台は24位で完走を果たし、何とクラス優勝を飾っています。そしてここから日産のラリー活動が本格化していきました。

 日産が次のステップに選んだのはサファリラリー。1953年に始まったクラシックイベントで、モンテカルロ・ラリー、RACラリー(現ウェールズ・ラリーGB)と並ぶ世界三大ラリーとも位置づけられていて、灼熱の大地であるアフリカの道なき道を駆け抜ける過酷なラリーです。

 1963年から挑戦を始めた日産は初年度となったこの年、2台のブルーバードと1台のセドリック、計3台での挑戦でしたが全車リタイアに終わっています。翌64年はセドリック4台で挑み、3台はリタイアに終わったものの1台が20位で完走。65年はブルーバード3台で挑みましたが、3台すべてリタイアに終わっています。

 しかし68年には前年に登場した1300SS(P411型)の4台体制で臨み、2台はリタイアしましたが、残る2台が総合5位と6位で完走し、1600ccクラスで見事1-2フィニッシュを果たしています。もちろん国産車初の快挙でした。

 クラス優勝を飾った日産チームの次なる目標は、もちろん総合優勝です。しかし67年はただ1台走り切ったセドリックが総合17位/クラス5位入賞、68年は2台のセドリックが総合5位と7位で走り切りクラス2~3位入賞。67年に登場した3代目ブルーバード(510系)を投入した69年の大会では、地元チームも含めて6台のブルーバードが完走し、最上位は総合3位でふたたび1600ccクラスを制することになりましたが、なかなか総合優勝には手が届きませんでした。

 しかし、その日がついにやってきます。70年の大会ではブルーバード1600SSSが猛威を振るうことになったのです。そしてエドガー・ハーマン組とジョギンダ・シン組が見事1-2フィニッシュを飾るとともに、トップ10フィニッシャーの4台を占める安定した力を見せ、総合優勝とクラス優勝、チーム優勝の三冠を果たしたのです。

ポルシェやフォードが打倒日産で立ち上がる

 それまで“技術の日産”を標榜していた日産は、その後“ラリーの日産”、“サファリの日産”をキャッチフレーズに快進撃を続けることになります。71年の大会では主戦マシンをフェアレディZ(輸出名はダットサン240Z)に換え、4台のワークスマシンで大会に臨んでいます。

 ポルシェやフォードの海外勢も、打倒ダットサンを合言葉にワークスチームが参戦。スタート直後からZとポルシェは死闘を繰り広げることになりましたが、大詰めに来てポルシェが脱落。ハーマン組とシェカー・メッタ組の見事な1-2フィニッシュにより、前年のブルーバードに続いて日産が連覇を達成。さらにチーム優勝とクラス優勝も飾り、2年連続で三冠を奪うことになりました。

 72年はフォードとポルシェの逆襲にあって5位に留まりましたが73年にはメッタ組の240Zが優勝し、これがデビュー戦となったハリー・カルストローム組のブルーバードU 1800SSSが総合2位で続いています。その後も79年から82年にかけてバイオレットGT(79~81年はグループ2車輌、82年はグループB車輌)が4連覇。あらためて、サファリに強い日産を大いにアピールしています。

よりスポーツ性の高いヨーロッパのラリーにも挑戦

 サファリで総合優勝を目指していたころ日産は、もうひとつのチャレンジとしてヨーロッパ・ラウンドのクラシックイベント、伝統のモンテカルロ・ラリーにも参戦を始めていました。

 初年度となった65年はリタイアに終わり、翌66年にはブルーバードSSで完走はしたものの59位、翌67年は58位、と世界の壁は厚かったようです。それでもフェアレディ2000に車両を変更した68年には、ハヌー・ミッコラ組が勇躍9位に進出していました。やはりハイパワーなポルシェ、ランチア・フルビアやアルピーヌ・ルノーといったラリー・スペシャルに対抗するには、1300ccのセダンでは厳しかったのでしょう。

 そのフェアレディ2000に比べて大きくポテンシャルを高めた240Zを71年に投入すると、ラウノ・アルトーネン組が5位入賞。翌72年にはやはりアルトーネン組が3位入賞を果たしています。70年代後半には主戦マシンがブルーバード/初代バイオレット後継の2代目バイオレット(PA10型)に移行しましたが、サファリラリーやオーストラリアのサザンクロスラリーに戦いの場を求めました。

 先に紹介したように79年から82年までサファリ・ラリー4連覇を飾っていますが、ヨーロッパラウンドへの参戦は一時休止状態となっていました。その間に、バイオレット以上となるラリーマシンの開発を進め、三代目シルビア(S110型)をベースにした240RSを製作。

 これはシルビアのボディにR30型スカイラインRSに搭載されていた、FJ20Eエンジンを搭載するRSグレードを設定。そのRSをベースに2.4L直4ツインカムでインタークーラーターボを装備したものでした。そして、その後継として88年には四代目シルビア(S12型)をベースに3L V6エンジンを搭載したシルビア200SXが製作されていました。

 ただし残念ながら、このころになるとWRCはもうフルタイム4WDシステムを組み込んだマシンが天下を取り、大半のイベントが後輪駆動では勝負にならなくなってきていました。そのため200SXは、ハイパワーの後輪駆動が唯一勝負できるアフリカのイベントに参戦。デビューイヤーの88年にサファリで2位、2輪駆動のクラス優勝を果たしています。

2Lターボ+4WDのパルサーGTI-Rを投入するも……

 WRCにおいて、フルタイム4WDのラリースペシャルにしか勝負権がなくなったのは、グループBからグループAに替わっても何ら変わることはありませんでした。そこで日産では、新たなウェポンを開発することになりました。それがパルサーGTI-RをベースにしたグループA車輌でした。

 ライバルは2Lクラスのボディから1.6Lクラスのボディに主要コンポーネントを移植した、第二世代のグループAマシンに移行していました。ですが、日産ではさらに一歩進めて、1.3Lクラスのコンパクトなボディに、2L直4ターボエンジンとフルタイム4WDシステムを組み込んだ“最強マシン”を投入することになったのです。

 昔から軽量コンパクトは永遠の正義と言われ、スポーツカーやスポーティカーを製作するのに、ハイパワーエンジンをよりコンパクトなボディに搭載するのは常套手段でした。

 しかし、思わぬ足枷がつくことになりました。コンパクトであったがゆえに、エンジンルームにはエンジン本体とターボ、それにフルタイム4WDシステムの大半が押し込まれてしまい、クーリングエアの通り道が確保しにくくなってしまいました。またホイールハウス(のサイズ)が限られていて、大径で太いタイヤを履くこともできませんでした。

 さらに、ライバルに比べてパルサーGTI-Rのみトレッドが狭かったために、轍のサイズが遭わず、ドライビングが難しくなるという問題にも遭遇することになりました。結局、グループAでは92年のスウェデッシュにおける3位がベストリザルトで、早々にWRCの檜舞台から撤退することになりました。ですが、改造範囲が厳しく制限されていて、ベースモデルのポテンシャルが競技車両のパフォーマンスを大きく左右するグループNでは大活躍。WRCのグループN部門でチャンピオンに輝くとともに、英国ラリー選手権でも2年連続してチャンピオンを獲得しています。

 グループAとしては“悲運のクルマ”との烙印を押された印象もありますが、グループNでは本来のポテンシャルを遺憾なく発揮していたのです。

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