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当時の最高級クラウンの2倍以上の価格! レース現場で鍛えられた「トヨタ2000GT」は日本車史上類をみない傑作だった

開発の歴史や高度なメカニズムがすごかった!

 最近は国産車と言えども、1000万円を超えるプライスタグがつけられたモデルも珍しくなくなってきました。しかし今回のストーリーの主人公、1967年に登場したトヨタ2000GTも、当時の国産最高級モデル、クラウン・スーパーデラックスの2倍以上の価格が設定されていました。そんな同車ですが、どこがすごかったのでしょうか。

ヤマハ発動機とのジョイントで開発された2000GT

 豊田佐吉翁が興した豊田自動織機製作所の自動車部としてスタートし、1937年に設立されたトヨタ自動車は、第二次大戦後には大きく飛躍。1955年にクラウンを発表すると、1957年にコロナ、1961年にパブリカと矢継ぎ早にニューモデルを投入して、車種バリエーションを充実させていきました。

 乗用車だけでなく商用車のラインアップも充実させていきましたが、スポーツカーに関しては1962年の東京モーターショーでコンセプトモデルがお披露目され、1964年の同ショーで市販モデル(のプロトタイプ)が登場。

 パブリカのエンジンを搭載、1965年に販売が開始されたトヨタ・スポーツ800、愛称“ヨタハチ”が唯一の存在でした。軽量コンパクトを徹底的に追求した“ヨタハチ”の魅力は充分に理解できますが、新興メーカーに名乗りを挙げたホンダが、ツインカムのメカニズムを盛り込んだS800を投入しました。

 ライバルの日産は1.5~1.6Lの2座オープン・スポーツのフェアレディを登場させていましたから、トップメーカーたるトヨタとしてもフラッグシップとなるスポーツカーの投入は、喫緊にして必須の案件となりました。

 そこで考えられたのが、動力性能を追求するがあまりスパルタンに過ぎてしまいがちなスポーツカーではなく、世界に誇れる高性能で豪華なグランツーリスモ、トヨタ2000GTでした。そして“ヨタハチ”の市販が開始された1965年のモーターショーに、コンセプト(というよりも極々市販モデルにほど近い)モデルが出展されていました。エンジン排気量が2000ccで最高出力がロードゴーイングモデルで150ps、レース向けにチューニングした仕様で200psと発表されましたが、詳細なスペックは未発表でした。

 そんなトヨタ2000GTですが、開発までにはいくつかの紆余曲折がありました。時系列も少し無視して乱暴な話になりますが、2輪メーカーでエンジン開発も手掛けていたヤマハ発動機と、トヨタのライバルで、のちにプリンス自動車工業を吸収合併することになる日産が、フラッグシップのグランツーリスモを模索するトヨタのプロジェクトに登場してきました。

 当初はヤマハ発動機と日産がジョイントしてスポーツカーの「A550X」を開発するプログラムが進んでいたのです。しかしこのプログラムは結果的に頓挫してしまいます。日産側の事情から、というのが事実のようですが、当然、詳細については公表はされないままでした。

 これでヤマハ発動機(の技術者)にとって悲願だった4輪開発も棚上げになってしまいましたが、新たにトヨタがヤマハ発動機に共同プロジェクトを持ち掛けます。それがトヨタ2000GTの開発プログラムでした。

 そのことから日産の関係者のなかには「あれ(=トヨタ2000GT)は日産とヤマハ発動機のプロジェクトだった」との声もあったようですが、搭載するエンジンやパッケージなどに相違があり、両車は完全な別モノ、ふたつのプロジェクトはまったく無関係で無関連、と考えるのが正答のようです。

 それはともかくトヨタ2000GTは、基本構成と生産をトヨタが担当し、エンジンの開発とチューニングをヤマハ発動機が担当。またインテリアに関してはヤマハの親会社であった日本楽器製造(現ヤマハ)の素材調達も含めて木工技術が惜しみなく投入されていました。

レースで鍛えられたグランツーリスモ

 1965年の東京モーターショーに、生産モデルにほぼ近いコンセプトモデルが出展されたトヨタ2000GTですが、まだ販売が開始される前の1966年5月、富士スピードウェイで行われた第3回日本グランプリのメインレースに出場し、3位入賞を果たしています。

 もう少し詳しく説明すると、2000GTはその名の通りGTカテゴリーに属するクルマで、ポルシェ906や日産R380などレーシングプロトタイプ(当時のグループ6)が参戦するメインレースではなく、フェアレディ1600が参戦するGTレースに出るべきクルマでした。

 しかし、まだ発売前ということで車両公認されるべくもなく、プロトタイプの純レーシングカーと判断されたのです。なので1-2フィニッシュを飾った純レーシングカーの日産R380に続いて3位入賞したのは称賛されるべきリザルトです。

 グランツーリスモらしく、レーシングカーに比べて重いこともあって、この年の日本グランプリのようなスプリントレースは得意種目ではなく、より長距離・長時間を戦いながら走り抜く耐久レースの方が得意でした。それを証明したのがその後の戦績です。

 まずは日本グランプリの1カ月半後、鈴鹿サーキットで行われた鈴鹿1000kmレースでは総合優勝を飾っています。さらに翌1967年3月の鈴鹿500kmで勝ち、4月の富士24時間、7月の富士1000kmでも優勝を飾っています。

 とくに国内で初めて開催された富士24時間レースでは、1-2フィニッシュを飾った2000GTが、僚友であるトヨタ・スポーツ800を挟んで3台でゴールラインを横切る“デイトナ・フィニッシュ”を演じ、大きな話題となっていました。

 一方、1966年10月には茨城県の谷田部にあった日本自動車研究所の自動車高速試験場において、スピードトライアル(国際速度記録挑戦)にも挑戦しています。

 キャプテンの細谷四方洋を中心に、チーム・トヨタの5人のドライバーが交替でドライブ78時間/1万6000kmに渡って連続で全開走行を続けた競技会。結果的に72時間走行時の平均速度206.02km/hなど排気量無制限の3つの世界記録と、Eクラス(2000cc以下)の13の国際記録を更新しています。

 近年、トヨタ自動車の豊田章男社長が「レースでクルマを鍛える」とコメントする機会も増えましたが、トヨタはこんな昔から、レースでクルマを鍛えていたのです。そしてトヨタ2000GTの高いポテンシャルはこうして生みだされたのです。

 トヨタ2000GTのシャシーにはバックボーンフレームが使用されています。これは、ロータスが好んで使用していたのに倣ったもので、フロントにエンジン/トランスミッションを搭載しリヤデフを搭載。フレームの左右にふたつのシートスペースを設けるというもの。

 ヤマハで開発とチューニングが施されたエンジンは、クラウン用のM型をベースにヤマハで設計開発したツインカムヘッドを組み込んだ3M型エンジンをフロントアクスルの後方、いわゆる“フロント・ミッドシップ”に搭載。サスペンションはコイルで吊ったダブルウィッシュボーン式の独立懸架。ブレーキも、当時は4輪ドラム式が一般的でしたが、4輪ディスクが奢られていました。

 スタイリング的にはリヤにハッチゲートを設けたロングノーズ+ファストバックのスポーツカーらしいものでした。

 インテリアはヤマハ製のウッドステアリングとインストルメントパネルが豪華な雰囲気を漂わせ、そのインストルメントパネルには大径のスピードメーターとタコメーターに加えて、電流/水温/油温/油圧/燃料と5つの小径メーターが連なっていて、グランツーリスモの機能美を醸し出していました。

 ボディサイズは全長と全幅、全高が、それぞれ4175mm×1600mm×1160mmで、これは現在のトヨタ86と比べてもひとまわり以上もコンパクト。

 とくに1160mmの全高は驚くばかりで、ボディ重量もわずか1120kgに収まっています。小さくてもその存在感は偉大ですらありました。当時、トヨタの最高級車だったクラウンのスーパーデラックスの販売価格は112万円でした。2000GTのそれは、倍以上の238万円でしたが、その開発の歴史や高度なメカニズム、そして何よりレースで鍛えたことによる伝説が、その価格設定の正当性をアピールしています。

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