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「最高級」に世界の誰も異論ナシ! 「ロールス・ロイス」はいかにして王様になったのか

ロールス氏とロイス氏の出会いから振り返る

世界最高峰の高級車メーカー「ロールス・ロイス」の始まりを辿る

 高級車って? その問いに対する答えは人それぞれですが、多くの人が候補として挙げるクルマが「ロールス・ロイス」です。今回は、そんなロールス・ロイスの歴史を振り返りながら「高級車」とは何かを考えてみました。

対照的なふたりが出逢って誕生したR-R

 ロールス・ロイス(Rolls-Royce)の社名は、会社を興したふたりの英国人の名前を連ねて命名されています。すなわちチャールズ・スチュワート・ロールスとフレデリック・ヘンリー・ロイスのふたりです。ただしこのふたりの来し方は好対照でした。

 裕福な貴族の家庭に生まれたロールスは、ケンブリッジ大学で工学を学び、さまざまなスポーツや冒険を楽しみ社交界でも花形となっていました。対して貧しい製粉業者の家に生まれたロイスは、9歳のころから働き始めると独学で電気技術を修め、すべての娯楽を断って設計と施策に没頭する真摯な技術者となっていまたのです。唯一彼らに共通していたのは、世界でもっとも優れた英国製のクルマを目指していた、ということでした。

 ただロールスはそれを扱うために欲していて、一方のロイスは、それを自ら生み出したいと思っていた、という違いはありました。学生時代にクルマを手に入れたロールスはレーシングドライバーとしても活躍していましたが、大学を卒業後にロンドン市内に自動車販売を手掛ける会社を設立しています。一方のロイスもマンチェスターに電気器具メーカーを設立し、発電機やモーターなどをヒットさせ、自らもマイカーを手に入れるまでになっています。

 ところが自動車販売を手掛けるようになったロールスも、自らマイカーを手に入れたロイスも、そのクルマに対して不満が溜まっていったのです。そして先に触れたように、ロールスは世界でもっとも優れた英国車を販売したいと思うようになり、一方のロイスも世界でもっとも優れた英国車を造りたいと思い始めたのです。

実直に作りこんだ2気筒車「10HP」が道を拓いた

 ロイスが最初に試作したのは、2気筒エンジンを搭載する2座のフェートン(オープンカー/馬車の一形式)でした。先に触れたように、彼は自分でクルマを手に入れていますが、それはフランス車の「デコヴィル(Decauville)」でした。2気筒エンジンを搭載したデコヴィルは、当時としては最新のスペックが盛り込まれたモデルでしたが造りが酷く、その振動や騒音は技術者である以前に、完璧主義者であるロイスを苛立たせました。

 そこでロイスがクルマを試作するにあたって考えたのは、自分が手に入れたデコヴィルをベースに不具合を修正し、完璧な造りのクルマを目指すことでした。ロイスは天才的で奔放なエンジニアというよりは、誠実で実直なメカニックというべき技術者でしたから、これはまさにベストな方法だったに違いありません。

 そして1904年に試作車は完成しています。まずは自らがテストドライバーとして通勤に使ったところ、その結果は満足のいくものだったようで、ロイスはさらに2台の試作車を増産。電気器具メーカーの社長を務めていたアーネスト・アレクサンダー・クレアモントと、彼らの会社の大株主だったヘンリー・エドムンズに提供して、さらなる走行テストを続けることになりました。

 ここから大きな幸運が舞い込むことになるのです。ロイスが増産した試作車は、エドムンズによって現在のRAC(Royal Automobile Club=王立自動車クラブ)に繋がるオートモビル・クラブ・オブ・グレートブリテン&アイルランド(Automobile Club of Great Britain And Ireland)が主催するテストに持ち込まれました。じつはこのクラブを立ち上げたメンバーのひとりがチャールズ・スチュワート・ロールスで、このテストにもテストドライバーとして参加していたのです。

 それまで単気筒とか2気筒のクルマを端っから評価していなかったロールスですが、ロイスの2気筒エンジンを搭載した2座フェートンにはいたく感銘したようです。ロールスはすぐにロイスと面会し、その場で彼のクルマを専売する契約を結んでいます。ロールス・ロイスが誕生した瞬間でした。

目指したのは世界でもっとも優れた英国製のクルマ

 こうして1904年の5月にロイスと契約を結んだロールスは、2気筒モデルの生産化と、新たに3気筒と4気筒、6気筒モデルの試作を依頼。ロイスはこれに直ちに答えて4種のモデルを設計し、同年のうちには販売にまでこぎつけています。また同年のパリ・サロンに2気筒「10HP」と4気筒「20HP」の2台を出展したところ、予想外(本人たちの期待通り?)の反響を巻き起こしました。

 舞台がパリということもありましたが、それまで英国車というのは二流の烙印を押されていました。悪名高い赤旗法(正式にはThe Locomotive Act 1865。日本でいうところの道路交通法)によって、英国ではクルマの進化が封じられていて、当時、最高のクルマはフランス車、というのが定説になっていました。しかし、ロイスの2気筒10HPと4気筒20HPが、これを覆すことになったのです。それは同サロンで金賞を受賞したことと、その場で27台の注文が集まったことからも明らかでした。

 これに続いて同年のロンドンのモーターショーにも初出展され、パリ・サロンと同様に好評を博すことになりました。そして社交的だったロールスの活動やレースでの活躍もあって、イギリスの上流階級層にロイスのクルマは短期間のうちに浸透していったのです。1906年にはロールスとロイス、それぞれの会社が合併し(工販合併)、自動車メーカーとしての「ロールス・ロイス社」が誕生しています。

誠実かつ完璧な作業にこだわった結果が「最高級」の称号

 高級車の代名詞となったロールス・ロイスですが、その要因はいったい何なんでしょう? クルマを評価する評価軸では、静粛性や低振動性、あるいは信頼性が喧伝されてきました。コマーシャルでは「時計の音以外は何も聞こえない」とかいうキャッチコピーが語られていましたし、エンジンを始動したロールス・ロイスのボンネットに立てたコインが倒れることがない映像も話題になりました。

 残念ながらロールス・ロイスのオーナーになった経験がないために、実体験の話はできませんが、信頼性に関しては、旅先でトラブルが起きたユーザーが修理を依頼したところ、夜のうちに完璧に修理されていて、旅先から自宅に戻ったユーザーが代金を支払おうと連絡したところ「ロールス・ロイスが壊れるはずはないし、そんな修理をした記録も残っていません」と告げられた、という逸話も数多く聞かれています。これは「The Best Car in the World」を謳うロールス・ロイスの矜持を示しているものです。

 ただし、おそらくはロイスもロールスも、高級車を造ろうとか、高級車を売ろう、とか考えたことはないはずです。ともに目指したのは高級車ではなく世界でもっとも優れた英国車で、製作に当たっては誠実かつ完璧な作業が進められていたようです。誠実で実直なメカニックというべき技術者だったロイスは常々、「どんなに謙虚であっても、正しくなされることは何でも高貴である」と語っていたそうですが、その哲学が具現化したクルマだからこそロールス・ロイスは高級車たり得るのではないでしょうか。

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