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「史上最悪のスカイライン」とまで酷評! ハイソカーブームに翻弄された悲運のR31スカイライン

時代を席巻したハイソカーブームがR31の運命を左右させた

 1985年8月に登場したスカイラインとして7代目となる通称「7th(セブンス)」。開発当時はトヨタ・ソアラを頂点としたハイソカーブーム真っ盛りで、スカイラインの直接的なライバルとなるアッパーミドルセダンのマーケットもマークII3兄弟が席巻。好景気を追い風に汗臭いイメージのスポーツよりもスタイリッシュで高級がユーザーのハートを捉え、街なかにはスーパーホワイトカラーの4ドアハードトップが溢れかえった。

 この状況を日産陣営も無視できず、スカイラインもハイソカー路線へと舵を切った。それほどまでにマークII三兄弟は売れていたのだ。ちなみに1980年代後半には、3兄弟合わせて年間3万台以上を販売している。

革新メカニズムを満載した先進的なスポーツサルーンを目指したが……

 パワーユニットもすでに旧態依然となっていたL型エンジンを止め、電子制御可変インテークのNICSやダイレクトイグニッションのNIDSなど、革新的なメカニズムを投入した新世代のRB20を開発した。足まわりは量産車では世界初の四輪操舵システムのHICASを採用。ステアリング機構もボール&ナット式からラック&ピニオンに変更するなど、パフォーマンス、ハンドリングを含めてスポーティ度を引き上げた。

 スカイラインはイマドキのルックスに先進技術満載のスポーティな走りをミックスさせ、高級スポーティサルーンという日産流ハイソカーでマークII三兄弟の牙城を崩すことを目論んだ。

 いわゆる「後出しじゃんけん」的に二匹目のどじょうを狙い、あわよくば刈り取ってしまおうという作戦だったが、失敗に終わってしまう。とくに熱狂的なファンが多いスカイラインに至っては、袋叩き的な批判を受けることに……。企画は悪くない、革新的なメカも投入したのになぜそうなってしまったのか?

古臭いスタイルに熟成不足のエンジン……見た目と走りともに不評

 まず、デザイン。はっきりいえば1980年代中盤に求められた高級、洗練という言葉を開発陣は理解し切れていなかったのではないだろうか? R31は1960~1970年代の大きく立派に見えるデザインで、曲面を多用し、スッキリして見えるマークII三兄弟と比べて明らかに古かった。ご存じの方も多いと思うが、新車発表前のディーラーに向けた事前説明会でも、「これで大丈夫か」と疑問の声も上がっていた。発売前に内部からそうした声が出るのは大いに問題だろう。

 デザインが多少冴えていなくても、スカイラインはスポーツセダン。走りが良ければなんとか面目躍如というところだが、満を持して投入された直6ツインカムエンジンは、スペックこそクラストップ(RB20DETがグロス表示で210ps、RB20DEが165ps)を誇ったが高回転まで回らず、フィーリングにもキレがなかった。

 これは先進機構であるNICSが設計通りに作用せず、高回転で逆に抵抗となっていたのが原因だ。その機構を持たない廉価版のSOHCのほうが気持ちいい(RB20の素性自体が悪いわけではなかった)という状況は明らかに熟成不足。スポーツエンジンならではの気持ちよさを期待して上級モデルを買ったファンには、納得いかなかっただろう。

開発責任者である故・櫻井眞一郎氏の体調不良と入院が最大の原因

 次に車両重量。先代(R30型)の最上級モデル(4ドアRS-XターボC)との比較で約200kgも増えている。排気量が同じ2Lでこの重量差となると、動力性能の低下はいかんともしがたかった。また、販売計画で2ドアクーペは遅れてデビューさせることが決まっていたのだが、4ドアH/Tと4ドアセダンがマーケットに受け入れられなかったことで、2ドアモデルがまだ存在しないこともあり「時代に日和った」イメージを強くしてしまった。

 最大の原因は開発責任者の故・櫻井眞一郎氏の体調不良だろう。演奏会でも指揮者がしっかりタクトを振れないと一体感のある美しい演奏ができないのと同じで、これまでモデルのように隅々まで目が行き届いて(作り込まれて)いなかった。最終的には発売を翌年に控える1984年12月に病に倒れ、入院することに。そのような状態では作品が良いモノに仕上がるはずがないというわけだ。

失われたイメージ回復のために伊藤主管は矢継ぎ早に改良を加えた

 ファンから「史上最悪のスカイライン」と揶揄されたR31だが、櫻井氏の後を受け継ぎ開発責任者となった伊藤修令氏は、失われたスカイラインのイメージ回復のために矢継ぎ早に手を入れていく。

 まずデビューから約9カ月後の86年5月に登場し、GTSと名付けられた2ドアクーペだ。スラントしたフロントフェイスに、メッキ類などの光物の廃止、すっきりしたトランクリッドなどに変更。さらにフロント可変オートスポイラー(70km/h以上になると自動でせり出す)を採用するなど、ソフィスティケートされた高級路線からスポーティなデザインやイメージに一新した(同月にワゴン、同年9月、4ドアにもGTSグレードを追加している)。

 エンジンもタービンが軽量なセラミック製とすることでレスポンスがアップ。細かい改良でフィーリングは大きく改善した。軽量化にも着手し、4ドアと比較して100kg強のダイエットに成功している。

GTS-Rやオーテックバージョン投入などモデル後半は話題に溢れた

 さらに1987年8月にはエンジンに本格的に手が入る。NICSも長さの違うブランチ内にバルブを設け、低速トルクと高回転のパワーを両立させるツインポートから、筒の中をふたつに分けて同様の制御を行うシンプルなシングルポートに変更。それに合わせてタービンもハイフロー化し、サージタンク容量の拡大やECUの見直しを測るなど改良は多岐におよび、RB20DETは10psの出力向上を達成。前期型とは別物のフィールとなった。また、4ドアの顔が2ドアと共通となり、全車スカイライン本来の血統といえるスポーツセダンに回帰した。

 極めつきはグループA参戦ベースモデルであるGTS-Rの登場。210psは当時の2Lスポーツカーでは最強のスペックであり、800台の限定とあって申し込みが殺到するなど人気を集めた。

 さらに1988年5月には、生みの親である櫻井氏がR31のひとつの完成形として手掛けたスペシャルチューンドカー「オーテックバージョン」(のちに3L V6エンジンを搭載するS&Sドリフトパッケージも車両持ち込みという形ながら生産)も誕生するなど、モデル後半は話題に溢れていた。

最終型の走りは洗練されたが、第一印象のイメージを覆すのは難しい

 最初のつまずきで失敗作の烙印を押されてしまったR31だが、4年のモデルサイクルのなかで大幅な改良が施され、最終型の走りは初期型とは別物といえるほど洗練された。ただ、第一印象の悪さを好転させるのはやはり難しいモノで、販売台数は劇的な回復には至らなかった。だが、じつはバブル期のど真ん中に登場し、歴代でも名車の誉れ高いR32より売れている。そう考えるともう少し評価されても良いと思うのは、私だけではないはずだ。

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