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世界の富裕層を魅了する「フェラーリ」はレースのために生まれたブランドだった

1950年代には富裕層が愛用するブランドになっていた

 イタリアを代表する自動車メーカーであり、もはやスーパーカーの代名詞的存在となっているフェラーリは1947年に設立された。

 創設者で、F1グランプリ界で圧倒的な発言力を有していたエンツォ・フェラーリが生まれたのは1898年2月18日のことだ。コメンダトーレという愛称でも知られたエンツォ・フェラーリは、1920年にアルファロメオのテストドライバーとなり、その後、レーシングドライバーに昇格。

 1929年にレーシングドライバー仲間との共同出資により、スクーデリア・フェラーリを設立し、アルファロメオのセミワークスチームとしての活動を開始した。そして、既述したように1947年にモータースポーツ参戦資金を稼ぐことを目的としてフェラーリ社を創設し、レース活動で得た知識と技術を活かして生産した高級スポーツカーを販売するようになった。

設立からわずか4年でF1初勝利

 カヴァリーノ・ランパンテと呼ばれる跳ね馬の旗印のもと、1950年から始まったF1グランプリにも参戦。1951年に所属ドライバーのホセ・フロイラン・ゴンザレスが、第5戦イギリスグランプリでスクーデリア・フェラーリにF1初勝利をもたらした。このときに、古巣であるアルファロメオに対して発したといわれる「わたしは母親を殺してしまった」という言葉はあまりにも有名だ。

 それ以降もモータースポーツフィールドにおいて勝ち続け、イタリアのナショナルチーム的存在となったスクーデリア・フェラーリ。F1グランプリ、ル・マン24時間、ミッレ・ミリアなどのレースで輝かしい戦績を遺していった。

 それと同時に跳ね馬のエンブレムを持つ、ピニンファリーナがデザインした流麗な市販車も人気モデルとなり、高い性能と美しいデザインで1950年代以降、世界各国へと販路を拡大。富裕層が愛用するブランドとして成長した。

 しかし、内紛やフォードとの買収交渉が決裂するなどして、1960年代初頭から経営が次第に苦境に陥り、1969年にフェラーリはフィアット傘下となった。エンツォは会長に就任しつつ市販車部門から手を引き、モータースポーツ部門であるスクーデリア・フェラーリの指揮に専念。そのため、市販車部門はフィアットの管理下に置かれた。

市販車のクオリティアップを図ったモンテゼーモロ

 1973年にルカ・ディ・モンテゼーモロをスクーデリア・フェラーリのマネージャーとして招き入れてからはチーム運営の第一線から離れたが、ドライバー選択などには大きな影響を与え続けた。そして、テスト走行を自社の敷地内にあるフィオラノサーキットの別邸で見守ること、地元イタリアGPの練習走行に顔を出すことがおもな活動内容となった。F1グランプリの決勝レースはテレビ中継を見ていたといわれている。

 市販車のほうでは、1950~60年代を代表するV型12気筒エンジン搭載車の250シリーズが、275、330、365へと発展。1970年を迎えた時点でV型12気筒エンジンをフロントに積んだ各車と、V型6気筒ユニットをミッドシップの位置に搭載するディーノを生産していた。

 当時のトップモデルは1968年登場の365GTB/4デイトナで、フロントエンジンにこだわりながらランボルギーニをはじめとするライバルに対抗した。しかし、他ブランドのスーパーカーがミッドシップを採用し始めたこともあり、デイトナの後継車として1973年に市販が開始された365GT4/BBは、フェラーリ初の12気筒ミッドシップ車となった。

 ディーノは1973年にV型8気筒を積んだベルトーネ・デザインの308GT4に発展。その後、ピニンファリーナ・デザインの308GTBが1975年にリリースされ、この308シリーズのラインが今日まで続くV8ミッドシップフェラーリの始祖となった。365GT4/BBをルーツとする180度V型12気筒エンジンミッドシップ車は、1990年代までフラッグシップモデルとして君臨した。

 創業40周年記念モデルであるF40発表の翌年、1988年8月14日にエンツォ・フェラーリは死去。その後、社長に就任したルカ・ディ・モンテゼーモロが市販車のクオリティアップを図ったことで好調なセールスを記録している。成績不振だったスクーデリア・フェラーリも建て直し、F1グランプリにおいて1999年から2004年まで6年連続でコンストラクターズチャンピオンを獲得するまでになった。

 現在もフェラーリの各車は自動車趣味人を魅了し続けており、これからも圧倒的なカリスマ性を誇ったエンツォ・フェラーリの威光が色褪せることはないのであった。

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