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世界でたった2台のレア車が189億円で落札! 驚きの値を付けたメルセデス300SLRウーレンハウト・クーペとは

落札収益を環境科学や脱炭素の分野で研究・教育を行うための基金設立に充てる

 さる5月5日、RMサザビーズが行ったオークションで1台のクルマが、個人コレクターによって1億3500万ユーロ(約189億3375万円)で落札されたことが話題になりました。この金額は、クルマの落札額としては、2018年にフェラーリ250GTOが記録していた5200万ポンド(当時の邦貨換算で約76億円)の2倍以上となる史上最高記録を塗りかえることになりました。新たな記録となったモデル、メルセデス300SLRウーレンハウト・クーペってどんなクルマなんでしょうか?

F1マシンをベースにスポーツカーレース用に開発された最強の1台

 300SLRはダイムラー・ベンツがレース用に開発し、1955年のスポーツカー世界選手権に参戦していたレースカー(レーシングスポーツ)。ベースとなったのは前年、1954年のF1世界選手権(F1GP)でシーズン中盤に登場したF1マシンのW196でした。

 W196は、デビュー戦となったフランスGPでファン・マヌエル・ファンジが即優勝を飾ると、このシーズンは都合6戦4勝、マセラティでスポット参戦した2戦での優勝も含めてファンジオは1951年以来のチャンピオンに輝きました。だた、翌1955年のF1GPでもインディ500マイルを除いて参戦した全6戦中4勝を挙げ、2年連続3度目のチャンピオンに輝いています。

 F1マシンというとタイヤ4本がむき出しになったスタイルがイメージされますが、W196は当初、ストリームラインと呼ばれるレーシングスポーツのように4本のタイヤをカバーしたスタイルで登場。3レース目のドイツGPでフォーミュラタイプのカウルを纏った仕様がデビューしています。(写真はフランスGP)

 じつはストリームラインではコース(の境界線)を確認しづらいという弱点があり、イギリスGPではファンジオも、コースの境界線を示すパイロンをいくつも跳ね飛ばした、とも伝えられています。ともかく、そんな歴史的な名車となったW196をベースに開発された、1955年シーズン用のレーシングスポーツは形式名としてはW196Sと呼ばれるようになりました。

 ただし一般的にはW196Rはそれまで通りW196と呼ばれ続けていましたが、W196Sは300SLR(300はエンジン排気量の3Lを表し、SはSport、LはLeicht リヒト=軽量、RはRennwagen レンヴァーゲン=レーシングカーを意味する)と呼ばれることになりました。

 W196Sは都合9台(シャシーナンバーは1号車から9号車が欠番で10号車まで)が製作されました。このうちの2台、シャシーナンバーでいうと7号車と8号車が屋根付きのクーペで、製作を統括したルドルフ・ウーレンハウトの名をもじってウーレンハウト・クーペとも呼ばれるようになっています。

 300SLRのシャシーは細身のパイプで組まれた鋼管スペースフレームに前後とも独立懸架式のサスペンションを取り付けたもので、フロントはダブルウィッシュボーン式、リヤはスウィングアクスル式でともにトーションバー・スプリングで吊っているのが大きな特徴となっていました。

 サイズ的にはホイールベースが2370mmで、これはW196Rのロングホイールベース版(2350mm)もさらに長く、トレッドも1330mm/1380mmとW196Rとは少しずつ異なっていました。ブレーキはドラム式でしたが、ホイールに収まらないほど大径化させた結果、インボードにマウントされています。

 W196Rとの最大の違いは、スポーツカーレースに参戦するために単座から2シーターへの変更でした。搭載されたエンジンは、W196Rと同様に直列4気筒ユニットを直列に2基繋げ、M196を名乗る直列8気筒のツインカム16バルブ。長いクランクシャフトの捻じれを防ぐ意味から、パワーの取り出しはクランクシャフトの後端ではなくクランクシャフトの中央部分から取り出すスタイルも踏襲されていました。

 W196Rに搭載されていたものが排気量2496cc(76.0mmφ×68.8mm)から290psを絞り出すのに対して、こちらは2979cc(78.0mmφ×78.0mm)から310psを引き出していました。ちなみにエンジンの搭載位置はフロントアクスルの後方、いわゆるフロントミッドシップのレイアウトです。

 また車名がよく似ていて、一部でメルセデス・ベンツ300SLのレース用エボリューションモデルが300SLRとの認識間違いもあるようですが、300SLRと300SLとは、設計上もメカニズム的にもまったくの別モノです。

ル・マンのアクシデントの影響もありレースに出ることが叶わなかった悲運のレーシングクーペ

 300SLRのデビュー戦は1955年スポーツカー世界選手権第3戦のミッレミリアでした。オープンモデル4台がワークスチームとしてエントリーしていましたが、うち2台はトラブルでリタイアとなりました。しかしスターリング・モス/デニス・ジェンキンソン組が優勝し、ファンジオが2位で続く、見事な1-2フィニッシュでデビューレースウィンを飾っています。

 続く第4戦のル・マン24時間ではファンジオ/モス組がマイク・ホーソン/アイバー・ビューブ組のジャガーとトップを争い、カール・クリング/アンドレ・シモン組が3位で続く展開となりました。ですがピエール・ルベー/ジョン・フィッチ組がアクシデントに巻き込まれてしまいました。

 これはトップ争いをしていた3台と周回遅れのオースチン・ヒーレーとが関わったアクシデントでした。オースチン・ヒーレーがホーソンに追い越されたあと、ピットロードに向かうために急減速したホーソンをよけるために左に車線を移したところ、後方から迫ってきたルベーと絡んでしまい、右前輪がヒーレーの左後輪に乗り上げる格好でルベーのマシンは宙を舞い、スタンド前の防護土塁に落下。

 なおバウンドしながら移動を続ける間にエンジンやミッション、サスペンションなどがスタンドに巻き散らかされ、ルベーと観客83名が死亡するという大きな、そしてモータースポーツ史上で類を見ない悲惨なアクシデントになりました。

 5カ月間にも及ぶ査問調査の結果、大会主催者やいずれのドライバー/チームに責任がないとの結論が出されています。しかしそのダイムラー・ベンツ社はル・マン24時間レースからの即時撤退を決めるとともに、その年限りでメーカーとしてのモータースポーツ活動を休止することを決定してしまいました。

 じつはこの時点までに、ダイムラー・ベンツ社はこのシーズンの最終戦となるはずだったカレラ・パナメリカーナ・メヒコに向けて300SLRのクーペモデルを製作することを決定していました。会社としてのモータースポーツ活動が休止されたことに加え、ル・マン24時間でのアクシデントを原因に、カレラ・パナメリカーナ・メヒコという競技自体も取りやめとなってしまったのです。

 300SLRのクーペモデルは、結果的に一度もレースに参加することなくダイムラー・ベンツ社の博物館に収蔵され、クルマ関連イベントで展示されたり、雑誌の企画でインプレッションが行われたり、はたまたウーレンハウト自身が日常的にドライブしていたとか、いくつかの武勇伝はありましたが基本、静かな余生を過ごすことになりました。そして1986年には完璧な状態へとレストアされていたことでも知られています。

 こうした個体のヒストリーとダイムラー・ベンツ社が70年近くも厳格に収蔵管理していたこと。そして何よりも世界でたった2台しか製作されていない希少性。そんな諸々の状況から、オークションが行われる以前から高値で落札されることは充分に予想されていました

 個人的にはクルマを投機の対象とすることが好きではないのですが、出展者がダイムラー・ベンツ社自身であること。そして同社が、落札によって得られた収益を環境科学や脱炭素の分野で研究・教育を行うための基金設立に充てる、と発表したことで、投機対象云々についての疑念や嫌悪感は薄れていきました。そして何よりも190億円近いという破格の落札価格にはもう驚くばかりです。そしてクルマの価値が分かる人に落札されてよかったのだと、今はしみじみ思うようになりました。

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