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「GT-R」の称号が16年ぶりに復活! R31での悔しさを晴らしたかったR32商品主管・伊藤修令氏の想いとは

伊藤さんと愛車のR32

櫻井眞一郎氏の想いを受け継ぎR32の開発をスタート

 初代スカイライン(ALSI)に憧れて’59年に『富士精密工業(のちのプリンス自動車)』に入社。櫻井眞一郎氏の下で長年スカイライン(S50~C210)のシャシー開発に従事した伊藤修令氏。R32は伊藤氏にとって商品主管として手掛けた「最初で最後のスカイライン」。だからこそ絶対に譲れないものがあった。R32開発時に込めた特別な想いとは。

(初出:GT-R Magazine 160号)

ファンの期待に応えることを何よりも優先した

 昭和60(1985)年1月、R31スカイラインの商品主管だった櫻井眞一郎さんが病気で入院することになり、その後を引き継ぐ形でわたしがR31をやることになりました。R31の開発はほぼ終了しており、2月末には運輸省(現・国土交通省)に型式指定の届け出をするという時期でした。当時はレパードとローレルの開発も兼任していたため、業務は多忙を極めました。

 R31では’85年8月に4ドアを出して、その9カ月後に2ドアクーペを出す計画でした。たしか’85年の6月だったと思うのですが、2ドアの試作車が出来たから見てほしいと言われたのです。そうしたら、その試作車には前後にGT-Rのバッジが付いていた。その直前くらいに発売前の4ドアのジャーナリスト向け事前試乗会を行っており、そこでボロクソに言われていたのです。「全然走らない」「エンジンが回らない」と。

 R31には新開発の直列6気筒24バルブのRB20DETを搭載したのですが、それがまったく評価されませんでした。わたしが見た試作車の2ドアも、基本的には4ドアと同じエンジンです。それでGT-Rと名乗るわけにはいかない。その場で咄嗟に「外せ!」と言いました。GT-Rはそんなに簡単に出せるクルマではありません。散々「走らない」と言われたエンジンを積んでおいてGT-Rだなんて言ったら、また酷評されるのは明白でした。

 正直なところ、R31があれほど悪く言われるとは思っていませんでした。もしかしたら、主管が櫻井さんからわたしに代わったことで、ジャーナリストの方々も本音が言いやすくなったのではないかと思います。でも、逆にそれがよかったかもしれません。

 次のR32をやるぞとなったとき、「スカイラインファンの期待にどうすれば応えられるか」ということを第一に考えました。わたしの中でも次期型ではGT-Rをやりたいという思いがありました。ただ、ベースがちゃんとしていなければGT-Rは造れません。R31では悔しい思いもしましたので、次は絶対に見返したいという思いも抱いていました。

R32で絶対に見返してやりたい! 思い切った変更が必要だと実感

 R32スカイラインは’86年3月に開発宣言をし、7月に常務会で基本構想が決定して正式に開発のGOサインが出ました。ただし、前年のプラザ合意で円の切り上げがあった影響で、日産の業績は創業以来初の赤字になると言われていました。そのため、社内では引き締めがあって、今ここで「GT-Rを復活させる」と言っても通らないだろう。そう思ってGT-Rという名前は伏せて「GT-X」という呼称を使用しました。

 スカイラインの基本は走りにある。だから次期型のR32ではスポーツカーのようなスカイラインを造ろうと考えていました。そのためにはかなり思い切ったことをやる必要がありました。営業部隊を中心にグループインタビュー形式のマーケティング活動を行い、わたしが考えるスカイラインが受けるかどうかを調査したのです。自分の考えている方向がこれでいいかどうか検証したい。結果はピタリと一致しました。

「走らないスカイラインなんて、スカイラインとは呼べない」そういう意見がありました。一方で、R30やR31を買った人たちがスカイラインを選んだ理由は「値引きが多かった」「親もスカイラインに乗っていたから」というのが多く、スカイラインを選んだ理由が走りの良さではなかったのです。

 ならば、R32はもっと小さくして若者に受けるクルマにしよう。そういう構想を営業部隊に伝えると「何を言っているんだ!」と猛反発を食らいました。

 R32はとにかく走りのいいスカイラインにする必要がある。それにはインパクトが大事で、やり過ぎくらいのことをしなければ。そんな気持ちで開発を始めました。エンジンに関して、櫻井さんは「スカイラインは2Lで良いクルマにするんだ」とやっておられましたが、GT-RはグループAで欧州車に勝たなくてはなりません。当時のレギュレーションを研究した結果、2Lでは歯が立たないので排気量を上げようとなったのです。

 当時のRB系エンジンには国内向けの2Lのほか、中近東向けのローレルで使用していた2.4L、オーストラリア向けのスカイラインに搭載していた3Lの3種類がありました。計算では2.6Lが最適だということはわかっていたのですが、エンジン部隊にこれから新規で開発してくれと言ってもやってくれないだろうと。それで2.4Lで提案したら通ったのです。

 ただ、グループAで欧州車に勝つためにはどうしても2.6Lにする必要があった。4駆で重量が増えることもわかっていました。エンジン設計は大反対でしたが、最後はなんとか押し切りました。

 鶴見で最初の試作のエンジンが出来たとき、当初の目標値は300ps以上でしたが、実際は315ps出ていました。それを実験車両に載せて走ったら、テストドライバーが「こんなんじゃダメだ」と言い出した。たしかに乗ってみたら高回転の伸びがイマイチでした。上での空気の入り方が悪くてトルクが落ちてしまっていたのです。だから「もう一回直せ」となった。

 エンジン設計の連中にはプライドもありますし「目標をクリアしているのに何なんだ」と抵抗しましたね。わたしはシャシー部門の開発をずっとやってきていたので、エンジン担当にしてみたら「伊藤は本当にエンジンのことをわかっているのか?」と思っていたのでしょう。それでも吸気系をもう一度改良してもらったらちゃんと良くなりました。それ以降はこちらの言うことを聞くようになってくれました。

 当時、国産車で最初に280psで認可を受けたのはGT-Rでした。発売はZ32のほうが早かったですが、先鞭を付けたのはR32だったのです。最初は310psで申請を出したのですが、運輸省からOKが出ませんでした。「295psではどうですか?」と食い下がったりもしましたが、最終的に自工会でもその話が出て、280psで行こうと決め、Z32も合わせる形となったのです。

R32は性能だけではなくデザインも妥協しなかった

 性能はもちろんですが、わたしの中ではR32はデザインにも拘りました。最初は厚木のテクニカルセンターでやっていたのですが、なかなかいい案が出てきませんでした。そこで、銀座にでもデザイン室を作って新しいことをやってみたらどうかと造形部に提案したのです。それに賛同してくれまして、R32はテクニカルセンターと銀座の2箇所でそれぞれデザインをやってもらいました。テクニカルセンターは昔からスカイラインをやっている人たちが多く、銀座のほうは若い人たちが中心でした。その2拠点に競争をしてもらったのです。

 スカイラインの前はマーチやプレーリーなどの担当をしていましたが、だいたいデザインが決まった後に引き受けていました。そこから原価をやって設計を進め、問題ないクルマに仕上げて売り出す、というところまでがわたしの仕事です。つまり、モデルがほぼ決まってから担当してきたのです。デザインの初期から担当したのはR32が初めてでした。それまではスケッチの段階からやったこともなかったです。スカイラインが好きだという社外の有名なデザイナーにも依頼してみましたが、ちょっと古くさいというか、パキパキのスカイラインを描いてきました。それは不採用になりましたね。

 わたしはクルマの商品性は7〜8割がデザインで決まると思っています。R32は塊感があってダイナミックなデザイン。そして止まっていても走りそうな形。ダイナミック、NEW、オリジナリティ、お洒落などのキーワードを決めてからデザイナーと詰めていきました。

 最初にまとまったのはテクニカルセンターの案でしたが、最終的には銀座から出てきたデザインを採用しました。厚木と銀座でコンペをするというのは当時の日産では初の試みでした。結果的に素晴らしいデザインのスカイラインが出来上がったと思っています。

原価ばかり考えていたのでは良いアイディアは生まれない

 発売から32年経った今でも多くの方がR32を大事に乗られていることは大変うれしく思います。ただ、最近は価格が高騰しているとかで、投資の対象だとか損得の道具にはしてほしくないというのが正直な気持ちです。そのために造ったクルマではありませんので。

 当時はより多くの方にGT-Rに乗ってもらいたいという思いがありましたから、価格はなるべく抑えて販売しました。あまり大きな声では言えませんが、わたしは儲けはそんなに考えていませんでした。GT-Rをやるとき、原価は結構厳しかったのですが、そのことばかり考えていると良いアイディアは出てきません。6連スロットルだなんていう発想も出てこなかったでしょう。

 収益管理室という部署があるのですが、そこと相談して「GT-Rは原価を気にすると良いクルマが出来ない。だから外してくれ」と言って、原価管理からGT-Rを外して開発したのです。

 R32はみんなで一緒によく話しながらやっていました。気付いたらいつの間にか深夜になっているなんていうことも。わたしにとって今でも良い思い出です。

 今年で御年85歳になられる伊藤修令氏。プリンス時代からスカイラインの開発に携わり、R32では16年ぶりに待望のGT-Rを復活させた立役者。スカイラインは長年共にしてきた「親友のような存在」だと語る。

 伊藤氏は長野県岡谷市にある「プリンス&スカイラインミュウジアム」の名誉館長を務める。同顧問の渡邉衡三氏も、かつて伊藤氏と共に故櫻井眞一郎氏に師事し、歴代スカイラインの開発を担当した。

 商品主管として最後に手掛けたR32GT-Rは今も所有し続けている(写真は本誌097号取材時のモノ)。最近ではご自身でステアリングを握る機会は減り、たまにお孫さんが動かしてくれているそうだ。

「GT-Rの原点はプリンスのスカイライン2000GT(S54)」と語る伊藤氏。第一回日本グランプリで負けた屈辱から、次は何としてでも勝つという強い思いで開発された。出自はR32も酷似している。

 ’90年に常務取締役としてオーテックジャパンへ出向した伊藤氏。ちょうど同じ時期に、R35統括責任者の田村宏志氏もオーテックに在籍していた。プリンスの血統は現代のRにも受け継がれている。

※この記事は2021年8月1日発売の「GT-R Magazine 160号」に掲載したものを元に再編集しています)

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