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「クラウン」が日本車を変えた! 純国産設計で「高級車」となった「トヨペット・クラウン」とは

モータースポーツや耐久ランに挑戦していたクラウン

 先ごろ、トヨタがクラウンをフルモデルチェンジし、16代目がお披露目されました。先行販売されるクロスオーバーに加えてスポーツとセダン、エステートの4車型をラインアップするなど、想像を絶する変貌を遂げていました。そこで、これを機にその源流となった初代モデル、1955年登場のRS系を振り返ります。

海外メーカーの手を借りずにすべてを自社開発

 豊田自動織機製作所の自動車部として1933年に開設されたトヨタ自動車は、1937年には独立し、株式会社としての歴史をスタートさせています。しかし、それ以前の1935年には初の試作モデルとなるA1型乗用車を3台試作し続けてG1型トラックを製作、そして翌1936年には量販型となるAA型乗用車を完成させていました。

 驚くべきは、シボレー製の乗用車やフォード製のトラックを参考にしていましたが、シボレーやフォードから技術供与を受けることなく、すべてを国産のオリジナルで製作していたこと。

 これはやがてトヨタの大きな財産になっていきます。太平洋戦争が始まると軍部の統制により乗用車の生産は制限され、トラック、それも軍用の生産に限られるようになったのです。それでもトヨタは豊田喜一郎を中心に乗用車の研究開発も進めていました。戦況は悪化し、やがて敗戦の日を迎えることに。

 トヨタは、それまでに生産してきた自動車の修理や、手元にある資材を使ってアイロンやコンロ、鍋や釜などを生産しながら糊口をしのぐ日々が続いていました。やがて敗戦国をとなったわが国を管理するGHQ(連合国総司令部)が、トラックに関しては生産を認めるようになり、戦時中に簡素化されていたKC型トラックや、より小型の1t積トラックの生産にもこぎつけていました。

 そして待望だった乗用車の開発もやがて始まり、1947年の1月にはSA型と呼ばれる試作車が完成しています。同年の6月にはGHQが、乗用車も1500cc以下なら年間300台に限って生産してもよいと規制を緩和。トヨタでは早速SA型の生産を始めるとともに車名(愛称)を募集し、トヨペットと決定されました。ただしAA型とは一転して、ヨーロッパに範をとったSA型は苦戦することになりました。

 まずはバックボーンフレームに4輪独立懸架のサスペンションを組み込んだシャシーに対して、信頼性を不安視する声が高まってきました。当時の国内は舗装路が少ないどころか、大半が荒れた道路だったので、とくにタクシー業界からの不満が高まってきたのです。

 また当時の日本人にとっては、ヨーロッパ風のデザインに馴染みがなかったことも影響したのでしょう。そこでトラックのフレームを流用してサスペンションをリジッドアクスルとし、アメ車風のスタイリングとしたSD型やSF型を投入。4ドアとなり実用性もアップして人気を呼ぶことになりました。

 SD型やSF型に続くトヨペット・スーパーなどのヒットと、何よりも朝鮮戦争による特需もあって、トヨタ自動車の経営は安定したものとなっていきました。そうなると技術者たちは、さらに“上”を目指すようになります。トラックからの転用ではなく専用設計の乗用車、それも納得できる高性能を持った新しいクルマを。

 そこでトヨタは1952年1月に、のちにトヨペット・クラウンと命名される新型乗用車の開発をスタートさせています。開発コンセプトとしては、ボディサイズは小型車規格いっぱいとし、アメリカンなスタイリングで貧弱に見えないこと。乗り心地が良く運転性能が優れていること。さらにタクシー用として丈夫で悪路に耐えるとともに安価であること。そして最高速度は100km/h、と明確な数字も挙げられていました。具体的に紹介していくと、まずエンジンはトヨペット・スーパーに搭載されていた1453cc(77.0mmφ×78.0mm)直4プッシュロッドのR型を搭載。最高出力はトヨペット・スーパーと同じ48psでした。

 ボディと別体で低床式の専用フレームに組み付けられたサスペンションは、フロントがコイルスプリングで吊ったダブルウィッシュボーン式独立懸架。リヤはリーフスプリングで吊ったリジッドアクスルとなっていました。これに関してはタクシー業界から、前後ともに頑丈なリジッド式を望む声が高かったのですが、トラック用のフレームを転用し前後ともにリーフ・リジッドとしたタクシー専用モデルのトヨペット・マスターを用意することで折り合いがつけられていました。

 ちなみに、クラウンのサスペンションはタクシーとして酷使されても何ら問題ないことが分かり、マスターはライトバンやピックアップトラックのマスターラインとして生き延びることになったのです。

 クラウンに話を戻しましょう。アメリカ車に倣ったスタイリングは、小さいながらテールフィンも備わっていました。4ドアセダンですが、リヤドアが後ろヒンジで前方が開くタイプで、通常の前ヒンジ式のフロントドアと合わせて“観音開き”と呼ばれています。これはとくにタクシー業界からの要望もあって、後席への乗降性に優れるメリットが重視されたためでした。

 ボディサイズは全長×全幅×全高が4285mm×1680mm×1520mmで、これは1453ccというエンジン排気量と同様、当時の小型自動車枠の制限内に収めた結果でした。

豪華な装備に加えて進化と熟成を重ねて屈指の高級車に昇華

 装備が豪華なこともトヨペット・クラウンの大きな特徴でした。と言いつつもインテリアは華美ではなく、むしろシンプル。ドライバーの正面左手に大径のスピードメーターをマウントし、右手には長方形の集合メーターを配した特徴的なレイアウトを採用していました。

 デビューから11カ月後の1955年12月には、デラックス(RSD型)が追加設定されています。真空管式のカーラジオやヒーター、電気時計などが装備され、圧倒的な豪華さを演出し、まさに“夢のクルマ”。ちなみに、グレード名であるデラックス(De Luxe。仏で高級とか豪華の意)は、昭和30年代初頭に流行語として広く使われるようになっています。

 一方、RSD型は、外観的にはホワイトリボンタイヤや小型のフォグランプが追加装着され、またフロントウインドウがRS型ではセンターの細いピラーで二分割されていたものが、RSD型ではワンピース・タイプに変更されていました。

 その後も1957年にはエンジンを改良し、R型/1453ccのまま62psにパワーアップし、型式はRS/RSD型からRS20型に移行しています。小型乗用車規格の中で最大のエンジン&ボディでスタートしたトヨペット・クラウンでしたが、1960年には規格改定があり、小型乗用車のエンジン排気量は1500cc以下から2000cc以下へと改変されています。トヨタではこれに呼応するようにエンジン排気量をR型の1453ccから1897cc(88.0mmφ×78.0mm)に拡大した3R型/最高出力は90psを開発し搭載。型式的にはRS21型に移行しています。 高級車というとモータースポーツとの関連はイメージしづらいのですが、クラウンはさまざまなモータースポーツや耐久ランに挑戦しています。最初に海外遠征を行うのは1956年のこと。これは競技ではなくロンドンから東京まで5万kmを走破するというもので、4月にロンドンをスタートし8カ月後、無事に東京に辿り着いて無類の耐久性・信頼性をアピールすることになりました。

 翌1957年にはオーストラリア大陸を一周、全走行距離が約10000マイル(約1万6000km)という世界最長にして、もっとも過酷な自動車競技として知られていたモービルガス・ラリーに出走。参加102台中50台がリタイアする中、近藤幸次郎/神之村邦夫組のクラウンは完走52台中47位、海外からのエントリーでは11台中3位で外国賞を受賞しています。度重なる“カイゼン”に加えてモータースポーツでも鍛えられたクラウンは、こうして屈指の高級車に育っていったのです。

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