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「デボネア」は走るシーラカンス! 「東京オリンピックからバブル前夜まで」昭和を駆け抜けた三菱のフラッグシップとは

22年間も販売されていたデボネア

 今ではSUVと軽自動車、そしてEVに特化してしまった感のある三菱自動車工業。かつては軽乗用車からフルサイズの4ドアサルーン、そしてスポーツカーまでをそろえたフルラインアップメーカーでした。今回は、フラッグシップ・サルーンとして1964年に登場したデボネアを振り返ります。

三菱が気合を込めて開発した2Lフルサイズの4ドアセダン

 戦前から乗用車を生産していた三菱ですが、敗戦による財閥解体などもあり、母体でありながら戦後は分散されていた3社……東日本重工業と中日本重工業、西日本重工業がふたたび統合され三菱重工業が復活したのは1964年6月のことでした。そしてその1カ月後の1964年7月にデボネアが登場しています。

 戦後、自動車事業を手掛けていたのは中日本重工業で、1960年の三菱500を皮切りに、1962年にはその発展モデルの三菱コルト600と、初の軽乗用車である三菱ミニカを発売。翌1963年には三菱コルト1000、1965年には三菱コルト800、と次々に新型車をリリースしています。

 そんな三菱重工業の悲願は自製フラッグシップ・サルーンを開発することでした。先達のライバルメーカーは、トヨタがクラウン、日産がセドリック、そして日産に吸収合併される前のプリンス自動車工業がグロリア、さらにいすゞもベレルと2Lフルサイズの4ドアセダンをラインアップしていました。

 傘下に自動車メーカーがなければともかく、中日本重工業ではトラックやバスだけでなく軽乗用車から1000ccの乗用車までを生産していたのです。三菱グループの首脳陣が、いくらタクシーとはいえクラウンやセドリックに乗らざるを得ない状況は、グループ各社にとって苦々しい思いだったに違いありません。

 そんな想いもあったのでしょうか、開発には十分なリソースが与えられていました。スタイリングを手掛けたのは北米ビッグ3のトップメーカー、ゼネラルモータース(GM)でデザイナーを務めていたハンス・プレッツナー。3サイズが5ナンバー枠に収まっているにもかかわらず、その存在感にはあたりを睥睨するものがありました。

 もちろん、開発に力が入っていたのはスタイリングだけではありません。新開発されたエンジンはプリンスのグロリア・スーパー6に次いで国産2例目となる直列6気筒エンジンで、グロリアや、のちに6気筒モデルを追加設定させるクラウンやセドリックが6気筒/4気筒併売(ベレルは4気筒のみラインアップ)だったのに対して、デボネアは6気筒のみをラインアップしていました。

 動弁系は先達のグロリアがOHCであったのに対して、デボネアに搭載されていたKE64エンジンはプッシュロッドを使用したOHVのリターンフロー。1991cc(ボア×ストローク=80.0mmφ×66.0mm)の排気量から105psと、グロリアのG7型と同等の最高出力を絞り出していました。

 5ナンバー枠に収まっているボディサイズも詳しく紹介しておきましょう。全長×全幅×全高の3サイズはそれぞれ4670mm×1690mm×1465mmで全長と全幅は、ほぼ5ナンバー枠の制限(4700mm×1700mm)いっぱいで、当時のライバルの中ではグロリアとほぼ同サイズで、クラウンやセドリック、ベレルより60mm~100mmも長く設定されていました。

 この5ナンバー枠いっぱいの、角張った3ボックス・スタイルのボディ/モノコックに組み付けられるサスペンションは、フロントがコイルスプリングで吊ったダブルウィッシュボーン式の独立懸架、リヤがリーフスプリングで吊ったリジッド・アクスル式。

 平凡ですがその一方でブレーキは前後ともにデュオサーボ式。しかも国産初のタンデムマスターシリンダー付きで、三菱ならではの気配りも見て取れます。最高速度は155km/hで0−400m加速も19.2秒。当時としては韋駄天な速さでした。

なかなかモデルチェンジにたどり着けずに販売的には苦戦

 しかし、残念ながらデボネアは営業的には苦戦してしまいます。1964年の7月にデビューし、その直後には東京オリンピックが開催され、クラウンやセドリック、グロリアとともに聖火ランナー伴走車など競技関係車両にも選ばれました。

 デボネアがデビューした翌1965年にはセドリックが2代目に、1967年には4月にグロリアが3代目に、同年9月にはクラウンが3代目となり、それぞれフルモデルチェンジでスタイリングを一新。さらにメカニズムでも大きく進化を遂げることになりました。

 しかし、デボネアに関しては1970年代に入って数度のマイナーチェンジが実施されただけで、なんと1986年8月にフルモデルチェンジが実施されるまで、じつに丸々22年もの長期間にわたって、基本設計を変えることなく生産が続けられたのです。

 何度か行われたマイナーチェンジの中で、比較的大掛かりなものを挙げていくと、まずは1970年の9月に2L直6プッシュロッドのKE64エンジンから、2L直6OHCで“サターン6”の愛称を持った6G34ユニット(ボア×ストローク=73.0mmφ×79.4mm=1944cc、最高出力は130ps)に換装するとともに、テールランプが大型化されるなどのフェイスリフトも実施されています。

 続いて1973年10月にはテールランプの形状が特徴的だったL字型から横一文字形状に変更され、フロントドアの三角窓が廃止されるなどのフェイスリフトを実施。さらに1976年の6月には6G34ユニットから2.6L直6OHCで“アストロン80”の愛称を持ったG54Bユニット(ボア×ストローク=91.1mmφ×98.0mm、最高出力は120ps)に換装して51年排気ガス規制に適合し、その後1978年4月には53年排気ガス規制をクリアしました。

デボネア コンバーチブルは今でも現存している

 なお、1978年には三菱自動車水島製作所で後期型をベースに、ルーフを取り去ってオープン仕様としたパレードカーが製作されています。

 当初は三菱自動車が所有していましたが、のちに倉敷市にある自動車博物館の『まび昭和館』に収蔵されることになりました。そしてバンクーバー冬季五輪のフィギュアスケートで銅メダルを獲得した高橋大輔選手の帰国凱旋パレードに使用されています。

 2018年の平成30年7月豪雨、いわゆる西日本豪雨で『まび昭和館』も浸水被害の痛手を受けましたが何とか復活。さらにその後は新型コロナの感染拡大で休館を余儀なくされたこともありましたが、2021年11月に再開。現在は毎月1回、第1日曜日に開館されています。

 デボネアが販売的に苦戦したのは、タクシー需要が見込める4気筒モデルがラインアップされていなかったことも理由のひとつとされていますが、やはりモデルチェンジもなく基本設計を変えないまま22年間も生産が続けられたことが最大の理由です。そのことから“走るシーラカンス”と呼ばれたこともありました。

 1964年にプロ野球でセントラルリーグの優勝を果たした阪神タイガースが、これ以降はなかなか優勝できず、デボネアのモデルチェンジと阪神の優勝はどちらが早いか? など揶揄されることもありました。阪神タイガースは1985年に21年ぶりのリーグ優勝を飾ると、その勢いのまま、日本シリーズではパシフィックリーグ王者の西武ライオンズを4勝2敗で破り、2リーグ制に移行して以降初の、そして悲願だった日本一に輝いています。

 ちなみに、翌1986年にはデボネアもフルモデルチェンジを受け、2代目のS11A/S12A型デボネアVが誕生。こちらにはAMGとコラボしたモデルもありますが、それはまた別の機会に紹介することにしましょう。

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