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ゴルフ場のカートのような車があった! フランスの天才エンジニアが作った「ヴォワザン・ビスクーター」とは

1949年に製作された「ヴォワザン・ビスクーター」プロトタイプの1台

フランス生まれスペイン育ちの「マイクロカー」

 かつてのサーブ、あるいはわが国のスバルや三菱、プリンスの例を挙げるまでもなく、航空機製造と深い関係を持つ自動車メーカーは世界的に見ても決して少なくない。かつては世界をリードしたフランス航空産業の一翼を担った「ヴォワザン兄弟飛行機会社」のガブリエル・ヴォワザンが、第二次世界大戦後に作った簡素なマイクロカーの物語をご紹介しよう。

航空機メーカーの先駆けとして第一次世界大戦で「大活躍」

 フランスは航空・宇宙産業の分野でも長い歴史と伝統を誇る。人類初の「飛行機」はアメリカのライト兄弟のライトフライヤー号であることはよく知られているが、その初飛行からわずか3年後の1906年、フランスのガブリエル・ヴォワザンとシャルル・ヴォワザンの兄弟はパリ近郊に「ヴォワザン兄弟飛行機会社/Appareils d’Aviation Les Freres Voisin(以下、ヴォワザン社)」を設立した。初の商業民間航空機メーカーとしても知られる同社は、1907年には自力で離陸できる飛行機を開発(ライトフライヤー号はカタパルトからの発進)。飛行機の実用化と普及に大きな貢献を果たすのである。

 1914年に勃発した第一次世界大戦。人類史上初の近代国家による凄惨な総力戦のなか、生まれて間もない航空機も戦争の趨勢を決する最新兵器へと姿を変え、その製造に携わったヴォワザン社も世界的な航空機メーカーとして飛躍を遂げる。1918年に戦争が終わると、ヴォワザン社はすでに世界有数の航空機メーカーとなっていた。しかし兄のガブリエル・ヴォワザンはこの年に航空事業を休止し、自動車メーカーへと転身したのだった。一説には、自身の航空機が戦争で「大活躍」したことに対する負い目からの決断とも言われている。

 ヴォワザンが目指したのは、航空機製造の技術を活かした超高性能で豪華絢爛なクルマであった。ちなみに弟のシャルルは戦争が始まる前の1912年、交通事故で他界している。

耽美的な高級車メーカーとして一世を風靡

 1920年代から30年代にかけて生産されたヴォワザン各車は、高度な航空機技術に裏打ちされた高性能とデカダンスな空気をまとったヨーロッパの貴族趣味、アール・デコの影響も感じられるデザインとが高度にバランスし、ガブリエル・ヴォワザンが狙った通りの唯一無二の世界観を作り上げた。そして、世界の王侯貴族を中心に高い評価を得るのであった。

 しかし、そんなお伽話のようなクルマ作りは長くは続かなかった。1920年代後半に始まる世界恐慌、そしてふたたび世界をおおう戦争の影。不況の波に飲み込まれた彼の工場は、第二次世界大戦勃発前年の1938年にエンジンメーカーのノーム・エ・ローヌ社に売却された。ふたつの世界大戦の間、つかの間の平和な時代に咲き誇った華やかなヴォワザンの歴史は潰えたのである。

第二次大戦後は一転してシンプルな大衆車を企画

 工場を手放したその年、1938年には設計コンサルタント会社「L’Aéromécanique(航空力学)」を設立したガブリエル・ヴォワザン。その後まもなく第二次世界大戦が勃発する。そして終戦。二度の世界大戦を体験した彼が、戦後ヨーロッパの復興に必要なのは耽美的な高級車ではなく庶民のための簡便な移動手段だと考え、企画したのがこの「ビスクーター」である。その試作モデルが発表されたのが、1950年のパリで開催された二輪のショー「サロン・デュ・サイクル・デ・ラ・モト」会場だったということも、そのコンセプトがクルマというよりも「四輪スクーター」といったものだからであろう。

 エンジンは2ストローク単気筒125cc、始動はクランクハンドル。フロントエンジン・フロントドライブだが、デフは備えず駆動は右前輪のみ。リバースギヤも持たないという徹底ぶりだ。トランスミッションは3速だが副変速機を備え、実質6速。これは戦前のヴォワザンにも見られた凝った機構だ。

 簡素きわまりないボディはアルミのリベット留めだが、その姿は戦前のGPマシン、「ヴォワザン・ラボラトワール」のイメージにも通じる。クルマの設計を生業にしつつも、その会社を「L’Aéromécanique(航空力学)」と名づけたことにも、ヴォワザンの出自と矜持を感じる。この試作型ビスクーターは15台が作られたという。

スペインで1950年代に庶民の足として親しまれた

 しかし、ガブリエル・ヴォワザンが、彼の手放した古巣の会社にこの企画を持ち込んでも、このプロジェクトに興味が示されることはなかった。すでに当時のフランスは、ルノー「4CV」やシトロエン「2CV」の時代になりつつあったのだ。

 そこでヴォワザンは、スペインはバルセロナのオートナシオナル社に企画を持ち込み、同社でのライセンス生産が決定する。オートナシオナル製の量産型ビスクーターは、エンジンをフランスのノーム・エ・ローヌ製に代えてスペインのイスパノ・ヴィリアーズ製2ストローク・エンジンとしたうえで、1953年から生産が始まる。その後ボディ形状や乗車定員などいくつかのバリエーション展開を行いつつ1960年まで連綿と作り続けられ、スペインで庶民の足として親しまれたのである。

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 フランスの天才技術者ガブリエル・ヴォワザンが設計し、1950年代のスペインで親しまれたビスクーター。その生産台数は約1万2000台と言われている。これは、戦前に生産された「絢爛豪華なヴォワザン」の総生産台数よりも多い。

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