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手作りミニF1「ハヤシ706」は「モノづくり日本」が熱かった1970年代の象徴だった! 戦績と開発経緯を振り返る

走行中の706。ウィング類を装着していないために、コンパクトさが強調されている

デビューレースで優勝したハヤシ706

 日本にレーシングカーコンストラクターが登場するキッカケとなったマシンが、ミニF1と呼ばれていたFL500でした。1970年代序盤にサーキットで猛威を奮った手作りのミニF1たちを紹介するシリーズの第2回は、大阪に本拠を構え、関西/鈴鹿勢のレーシングカーコンストラクターの先駆けとなったハヤシカーショップ/ハヤシレーシングが、処女作となった702Aの後継発展モデルとして1972年にリリースした706Aです。

第二世代に移行したミニフォーミュラ

 国内でフォーミュラカーによるレースが盛んになっていったのは1970年代になってからでした。JAFもF2000をトップに据えたカテゴライズを発表していましたが、そのボトムに置いたF360/FJ360よりも、エンジン排気量を500ccにまで上げて自然発生的に誕生した、FL500が人気を博すようになっていきました。

 その人気が高まる大きな要因となったのはやはり、より多くのFL500マシンが登場したことです。その多くはワンオフの、いわゆる“バックヤードビルダー”が製作したスペシャルモデルでしたが、FL500のシャシーコンストラクターとして、のちに関東と関西/鈴鹿勢のトップとなる鈴木板金(ベルコ)とハヤシカーショップ/ハヤシレーシングが、それぞれベルコ96Aとハヤシ702Aをリリースしたのもこの年でした。

 そしてこのハヤシカーショップ/ハヤシレーシングがリリースした702Aの後継モデルが、2年後の1972年にリリースされた今回の主人公、706Aでした。ちなみに、鈴木板金も同様に、1972年シーズンに向けてベルコ96Aの後継モデル、ベルコ97Aをリリース。東西のトップコンストラクターが、第二世代のFL500マシンを同時期に投入していたのです。

 ともにヒット作となった初代モデルを進化させた後継モデルとなったのですが、ベルコ97Aがフロントサスペンションをアウトボード式からロッキングアーム式のインボードにコンバートするなど、メカニズム的に大きく進化。それに対して、ハヤシ706Aの方は鋼管スペースフレームにアウトボード式の前後サスペンション、と基本メカニズムは702Aのそれを継承していました。

 それは702Aを設計したエンジニアの鴻池庸禎さんが、自らコンストラクターの鴻池スピードを設立し、オリジナルマシンのKS01を製作することになった影響から、ハヤシカーショップ/ハヤシレーシングでは御大の林 将一さんが中心になって702Aの正常進化モデルを開発することになったようです。

 ただしスペックだけではレーシングマシンのポテンシャルは計り切れないようです。ハヤシ706Aは3月に行われた全日本鈴鹿自動車レースのFL500チャンピオンレースで、高武富久美選手によって早くも優勝を飾飾りました。一方のベルコ97Aは1カ月後の鈴鹿500kmレースのFL500チャンピオンレースで高田忠正選手が初優勝。

 シリーズでも高武選手がチャンピオンに輝いています。もっとも高武選手は、シーズン途中でホンダのワークスチームなどをサポートするRSCに在籍していた木村昌夫さんが手作りでワンオフ製作したハヤシ707X、通称“幼稚号”にコンバートしており、これが純然たる706の戦績とはならないかもしれませんが……。また生産台数においても36台が販売されましたが、これはハヤシのFLで最多記録となっています。

勢力を増してきたスズキ製の水冷エンジンにも対処

 ハヤシ706Aを語るうえで、忘れてはならないことがあります。それは搭載するエンジンが、それまで圧倒的多数派を占めていたホンダN360/Z360用の空冷4サイクル2気筒のN360Eから、スズキ・フロンテ用の水冷2ストローク3気筒のLC10Wに移行していったこと。

 空冷のN360E用にはクーリングダクトを設ける必要があり、一方水冷のLC10W用にはラジエターをマウントする必要があったものの、クーリングダクトは必要なくなりました。むしろ、空気抵抗を考えるならダクトを設けない方が、より好結果が期待できます。

 そこで最初に登場した706Aは、ノーズにダクトのないスリークなボディカウルが特徴。ホンダ用にはコクピット後方にダクトを設けて、取り入れた空気を冷却気としてエンジンへと送り込んでいましたが、やがて専用のカウルが製作されています。

 これはコクピットの前部ボディ上面にエアダクト(空気取り入れ口)を設けて取り入れた冷却気を、コクピット左右のベント(通風孔)を通してエンジンへと導くもの。オリジナルではコクピット後方に設けられたダクトから取り入れていましたが、こうすることでより効率的に冷却気を取り込むことができるようになったのです。またスポーツカーノーズも用意されていました。

 一方、水冷のLC10W用はより空気抵抗の小さなオリジナルカウルでヒップマウントのラジエターを装着していました。ちなみに、こうして空冷のN360E用と水冷のLC10W用がそれぞれ特化した結果、前者を706H、後者を706Sと呼んでいます。

 ただしシャシーとしては706Aで共通しており、シャシーナンバーも2種類を通して振られていました。702Aからの変更点としてはホイールベースが1900mmから2050mmに延長されたことが大きく、またサスペンションのジオメトリーも見直されていて、これらの結果としてハンドリングが随分コントローラブルとなっていたようです。

 デビューレースで優勝し、同年の鈴鹿FL500チャンピオンレースでシリーズチャンピオンを獲得。販売台数的にも、ハヤシカーショップ/ハヤシレーシングのFL500として36台という最多生産記録を持っている706Aですが、同じ1972年には有力コンストラクターやバックヤードビルダー的なワンオフモデルも含めて、20種を超えるニューモデルがリリースされていました。

 そうしたなかで36台も販売されたこと自体は驚異的ですが、モノコックフレームを採用したライバルが数多くあり、鋼管スペースフレームのハヤシ706Aが、商品性の観点からライバルに後れを取っていたのはある意味事実。それが“モノづくり”に懸けてきたハヤシカーショップ/ハヤシレーシングの御大、林 将一さんには納得できなかったのでしょうか、後継モデルではとうとうモノコックフレームを採用しカウルワークにも力が入っていました。

 そんな後継モデル、ハヤシ709は1974年に登場しています。アルミパネルによるツインチューブ式モノコックに、ハヤシの伝統となったスリークなフロントノーズを持ったメインカウル。そしてリヤカウルはエンジンカバーとリヤウイングを一体で成形し、ロールバーをヒンジに跳ね上げるタイプで、商品性は格段にアップしていました。

 リヤカウルは、リヤウイングを一体式としたことで、エンジンカバーのみのリヤカウルに比べると重くなってしまいましたが、スウィングタイプとしたことで整備性にも好結果をもたらしていました。しかし販売台数は706Aには一歩及ばず30台に留まっています。ライバルの数にも影響されるので、販売台数がすべてではありませんが、706Aが優れていたことの証のひとつです。

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