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営業不振のBMWを救った「イセッタ」のデザインは、「冷蔵庫をスクーターでサンドイッチ」!?

1955年BMWイセッタ250のフロントスタイリング

独創的なデザインが特徴的だった

 今や自動車王国となったドイツで、トップメーカーのひとつとなったBMW。第二次世界大戦を敗戦国として迎えた際には、米英仏と旧ソ連が国土を西ドイツと東ドイツとして分割統治することになり、乗用車を生産していたアイゼナハ工場が東ドイツに存在していたことから、会社も分割されることになったのです。そんなBMWを救ったのがBMWイセッタでした。今回はBMWを窮地から救ったBMWイセッタを振り返ります。

エンジンメーカーから2輪を経て4輪マーケットに進出

 カール・フリードリッヒ・ラップが1913年にミュンヘン郊外のミルベルトショーフェンに、ラップ・モトーレン・ヴェルケの名で設立したエンジンメーカーが、BMWの原点とされています。1914年に勃発した第一次世界大戦による特需で生産規模が大きく拡大、さらに当時ドイツの航空機産業で最大手だったアウストロ・ダイムラー社から下請け業者に選ばれるなど経営体制が大きく確立しています。

 これを受けてラップ・モトーレン・ヴェルケは、1916年には増資を行うと同時に社名をバイエリッシュ・モトーレン・ヴェルケ(Bayerische Motoren Werke AG=バイエルン発動機製造株式会社)に変更。これがBMWの誕生でした。その後BMWは2輪車の製造を経て1928年にはオースチン・セブンのライセンス生産を行っていたディクシー・アウトモービル・ヴェルケを買収し、4輪車の生産を始めることになりました。

 最初はディクシーで生産していたDIXI 3/15HPをそのまま生産していましたが、やがて各所に手を加えたBMWオリジナルな3/20HPに発展させていきます。しかし、オースチン・セブンに搭載されていたサイドバルブの直4エンジンを流用する、というのはエンジンメーカーとして発展してきたBMWのエンジニアたちにとっては納得できないことだったようで、やがてオリジナルのエンジンを搭載したモデルを開発することになります。

営業不振のBMWを救ったイセッタ

 それが1933年に登場した303でBMW初の直6エンジンを搭載、初めて“キドニー・グリル”を採用したモデルとしてBMWヒストリーに残る1台となっています。303で自動車メーカーとして本格的なスタートを切ったBMWは、1939年には大型の上級モデルをリリースするまでになります。

 3.5Lのプッシュロッド(OHV)直6エンジンを搭載した335は、BMWのフラッグシップとしてメルセデス・ベンツにとって重要な高級車市場に打って出るまでになりました。しかしナチス軍のポーランド侵攻により第二次世界大戦が始まります。当初はアイゼナハ工場でそれまで通りの操業を続けていたBMWですが、戦争が激しくなったことから“戦争協力体制”に組み込まれてしまい、乗用車生産は休止となってしまうのです。

 敗戦国として第二次世界大戦の終戦を迎えたドイツは、連合国によって統治されることになりました。それも米英仏と旧ソ連が国土を分割統治するというスタイルで、結果的にBMWは西ドイツで生き残ったものの、アイゼナハ工場はそれが統治する東ドイツエリアにあったために、壊滅的な状況となってしまいます。

 ちなみにアイゼナハ工場はその後、東ドイツ政府によって国有化されBMWならぬEMW(アイゼナハ・モトーレン・ヴェルケ)の名で自動車生産を続け、東ドイツの国民車となるヴァルトブルクを生み出すことになったのです。

 それはさておき戦後のBMWは、戦前の姿を取り戻すべく2輪車の生産を再開し、やがて4輪車の生産に取り掛かりました。戦前に355と呼ばれるフラッグシップの上級セダンを設計開発していただけに、開発陣にとってはやはり上級モデルを開発したいという希望があったようです。そうして1951年のフランクフルトショーには501を、1954年のジュネーブショーには2.6LV8を搭載した502を発表。さらに503/507と呼ばれるスポーツカーを、アメリカ市場に向けて開発していきました。

 しかしこうした上級モデルを受け入れることができるマーケットは、敗戦国の西ドイツには存在していませんでした。さらにアメリカ市場でも生産準備の遅れから営業成績的には苦しいものとなり、営業不振はBMWに重くのしかかるようになります。そんなBMWの苦境を救ったのが今回の主人公であるイセッタ。イタリアのイソからライセンス供与を受けたマイクロカーでした。

2台のスクーターで冷蔵庫を挟み込んだスタイルが最大の特徴

 今回の主人公であるBMWイセッタを紹介する前に、ベースとなったイソのイセッタについても触れておきましょう。イソは冷蔵庫や暖房器具などを製造していたイソサーモスから派生発展したイタリアの自動車メーカーで、1960年代にはリヴォルタGTを発表。

 さらに何タイプものグリフォを発表し、スーパーカー・メーカーの先駆けとしても知られています。そんなイソがスクーターに続いて1950年代前半に開発したマイクロカーがイソ・イセッタでした。ちなみに、イセッタ(Isetta)とは小さなIsoの意。アルファロメオのジュリア(Giulia)に対する妹分のジュリエッタ(Giulietta)のように“etta”は小さなものを表す接尾語です。なお、ジュリアとジュリエットは妹分のジュリエッタの方が先に誕生する、という不可解な関係でしたが……。

 それはともかくイセッタです。冷蔵庫などのメーカーからスタートしたイソは、次いで2輪メーカーとしてスクーターなどを生産した後、4輪メーカーとして名乗りを挙げています。最初の4輪車を開発するにあたってオーナーのレンツォ・リヴォルタはエンジニアに対して『独創的なデザインを』と命じたようです。これに応じて開発担当のデザイナーは、まずは冷蔵庫を置き、その両横にスクーターを並べたようなデザインを示した、と伝えられています。

 イセッタのドアを『まるで冷蔵庫みたいにドアが開く』と形容することもありますが、まさに冷蔵庫のドアから生まれたアイデアだったのです。ただし、本国イタリアでは歴史的な傑作となったフィアット500のおかげでヒット商品とはなりませんでしたが、海外ではライセンス生産が盛んに行われることになりました。

イソ・イセッタと共通のパノラミック・ウインドウを採用

 海外におけるライセンス商品として、最も多く生産販売されたのはドイツにおけるBMWイセッタでした。ライセンス生産の契約を交わしただけでなく、BMWはイソ社からイセッタの生産設備も手に入れていましたから、当然と言えば当然です。1955年に登場した最初のBMWイセッタは、フロントドアだけでなくパノラミック・ウインドウと呼ばれるサイド及びリヤのウインドウ・グラフィックスも本家たるイソ・イセッタと共通でした。

 ただしエンジンメーカーから身を起こしたBMWらしく、エンジンに関してはオリジナルで搭載していた236ccで最高出力9.5HPの2ストローク単気筒エンジンから変更。戦後大ヒット商品となったオートバイのR25から転用した247cc(ボア×ストローク=68.0mmφ×68.0mm)で最高出力12HPの4ストローク単気筒エンジンを搭載していました。

 さらにBMWではスライドオープン機構を組み込んだサイドウインドウを採用し、排気量を298ccに引き上げ13HPにパワーアップしたエンジンを搭載するモデルを追加。さらにはエンジンをR67用をベースにした582cc(ボア×ストローク=74.0mmφ×68.0mm)で最高出力19.5HPのフラットツインに交換するとともに、全長とホイールベースを伸ばして右側に再度ドアを設けた2ドア/2+2シーターとしたBMW600を追加するなど、よりオリジナリティを高めていきました。

 しかし、シリーズで最大の特徴となっていたフロントドアは一貫して採用され続けていました。それこそがイセッタの存在理由だったのかもしれません。ちなみに、ステアリング系はフロントドアにマウントされていて、フロントドアを開くとステアリングも一緒に開いて乗降を簡単にする工夫がされていましたが、そのリンケージなどの技術レベルは今振り返っても高いレベルだと評価されています。ゲルマンの完璧主義をラテンの発想が凌駕していたということでしょうか。

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