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「ほぼ可能性なし」からの大逆転!D1で藤野秀之選手が1点差の劇的優勝【Key’s note】

藤野秀之選手の名は、この台場の海風の中で静かに誕生し、D1の歴史に永く刻まれる

強者を打ち破り神話の入口に立った男

レーシングドライバーであり自動車評論家でもある木下隆之氏が、いま気になる「key word」から徒然なるままに語る「Key’s note」。今回のお題は、「D1で藤野選手が逆転チャンピオン」です。ポイント差やタイヤの不利を抱えながらも、落ち着いた走りで勝ち進み、最後はわずか1点差で頂点を極めた感動の1日でした。

技術と心理戦が交錯する濃密なステージ

D1グランプリ最終戦・台場。会場に満ちていた空気は、決戦の高揚感よりも、どこか乾いた諦観のようなものでした。

藤野秀之選手のチャンピオン獲得は、数字の上では“ほぼ不可能”とされていました。にも関わらず、奇跡の逆転劇が演じられたのです。藤野選手はこれまで2度、チャンピオンという頂点に立ってきました。しかし今季はポイント差が大きく開き、最終戦を迎えた時点で、本人が

「奇跡でも起きない限り、チャンピオンは難しいと思いますよ」

と漏らすほどでした。声には焦りよりも、冷静に状況を受け止めた者だけが持つ静かな覚悟がにじんでいたように思います。

D1の採点方法は複雑です。派手なドリフトをすれば勝てるという単純なものではなく、審査員による視覚評価に加え、DOSと呼ばれる電子審査システムが、速度・角度・姿勢の安定を数値化します。予選では単独の演技である単走、そして決勝トーナメントに進めば、2台での接近戦となる追走が行われます。相手にどれだけ寄れたのか、逆にどれだけ寄せなかったかも得点に加味され、技術と心理戦が交錯する濃密なステージとなります。

そんな過酷な舞台で、藤野選手はポイント的に大きく不利な状態でした。逆転の条件は厳しく、ポイントリーダーが予選敗退し、なおかつ藤野選手が優勝しなければならない。まさに“ほぼゼロ”に等しい可能性でした。

しかし台場には、奇跡がそっと降りてきました。

ひとつ目の奇跡──常勝のライバルが、まさかの予選落ちを喫したのです。その瞬間、会場は驚きと困惑が入り混じったざわめきに包まれました。強者であっても、時に運命は別のカードを切る。そんな残酷で美しい事実を、誰もが目の前で見せつけられた瞬間でした。

摩耗したタイヤと静かなる闘志でつかんだ栄冠

とはいえ、藤野選手の前に立ちはだかる壁は依然として高いものでした。決勝トーナメントで4連勝しなければならず、その途中で得点が僅差の場合にはサドンデス(すなわち延長戦)を戦う必要があります。

ここで最大の試練となったのがタイヤ問題でした。D1では使用本数に制限があり、激戦が続くほどに、摩耗したタイヤで勝負に挑まなければなりません。

タイヤ開発を担当した加藤エンジニアは、深い無念を滲ませながら語りました。

「本来なら新品タイヤで挑みたいところです。ですがルール上、すり減ったタイヤで行くしかありません」

言葉には、戦う選手を思う気持ちと、技術者としての葛藤が静かに宿っていました。

そんな圧倒的不利の状況でも、藤野選手は淡々とクルマへ向かいました。背中には迷いがなく、むしろ静かな闘志が宿っていたように感じます。覚悟を決めた人間は、不思議なほど揺れないものです。

サドンデスの火蓋が切られた瞬間、会場の空気が張り詰めました。摩耗したタイヤで、果たして踏ん張れるのか。藤野選手のマシンがコースに舞い出たとき、動きは驚くほどしなやかで、鋭く、そして美しいものでした。削れたタイヤの叫びを押し殺すように、しかし確かな意志をもって相手へ寄り、姿勢を崩さず、限界のさらに奥へと踏み込んでいく。その姿は、まるで時間の流れさえ従わせているように見えました。

そして、運命の、最終的なスコアが掲示されました。

「170対169」

差は、わずか“1点”。

会場に響いたのは、歓声というよりも、敬意の深い吸い込みの声でした。誰もが理解していたのです。これは偶然ではない。この“1点”は偶然ではなく、藤野秀之選手が、自らの意志と技術でつかみ取った勝利そのものだと。

この瞬間、確かに感じました。藤野秀之選手は、ただチャンピオンになったのではありません。長い歴史のなかで、ごく限られた者だけが立てる“神話の入口”に足を踏み入れたのです。

ドリフトの神・藤野秀之。藤野秀之選手の名は、この台場の海風の中で静かに誕生し、D1の歴史に永く刻まれることでしょう。

奇跡とは、諦めなかった者のもとへ、最後にそっと降りてくる“ご褒美”なのだと、あの日、深く知ることができました。

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