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「村山工場で生まれたスカイラインは幸せなクルマ」名車と呼ばれた理由をスカイラインの父・櫻井眞一郎が明かした設計と現場の絆【櫻井眞一郎没後15周年特別寄稿vol.8】

村山工場の生産ラインで組み上げられる日産スカイラインGT-R(R34型)を職人が1台ずつ手を抜かず仕上げる

「ユーザーのためにいいクルマを作る」モノ作りのエキスパート集団

「スカイラインの父」こと故・櫻井眞一郎氏は、初代から開発に携わり、2代目S50型から7代目R31型の途中まで開発責任者を務めた技術者だ。没後15周年の節目に、生前のインタビューをもとにその言葉を特別寄稿として紐解く。第8回は、プリンス自動車の主力工場であった村山工場の回想の続編だ。荻窪の設計と村山の現場が共有した使命にこそ、スカイラインが名車と呼ばれた理由がある。

「作り手と対立してはいいクルマはできない」と言い続けた櫻井眞一郎

いいクルマは、作り手と対立していては決して生まれない。わたしは荻窪の設計スタッフに、つねにそう言い続けた。クルマを量産する場合、設計側は型(部品を成形する金型)の数を減らしたいと考え、工場は作りやすさを求める。それが当然だ。そのため荻窪の設計と村山工場が一体になり、型数を減らす努力をし、どうすればラインがスムーズに動くかを一緒に考えた。わたしは何度も現場のメンバーとラインを歩き、ときには原材料のことまで含めて議論を重ねた。

「その意見を通したいなら、新しい図面を描け」。そんな激しいやり取りも珍しくなかった。それでもわたしは設計スタッフに、こう伝えていた。「いいクルマにしたい気持ちは分かる。でも、作る側と対立していたら、絶対にいいクルマはできないぞ。どうしても通したい改善があるなら、まず俺に言え。相手の立場を考えろ」

あるとき、わたしの代理で部下を村山工場に行かせ、新型車の打ち合わせをさせたことがある。その場で部下は、生産ラインの大幅な設計変更を主張してしまった。これは大変な話で、設備投資もかかるし、発売時期も遅れてしまう。わたしは慌てて工場長に電話をした。

「俺が余計なことを言ったのを、部下が真に受けてしまった。申し訳ないが、元に戻してくれ」

量産に入る前だったので、大きな問題にはならなかった。それでも村山の人たちは文句ひとつ言わず、黙々と仕事をしてくれた。あの温かさは、今でも忘れない。

日産と合併して分かったプリンス自動車と村山工場のすごさ

プリンス自動車と村山工場のすごさを本当に実感したのは、日産自動車と合併してからだ。村山の工場を回ると、現場の人たちがみんな挨拶してくれた。そこに上下関係はなく、みな平等で、和気あいあいとしていた。本当にアットホームな職場だった。だからわたしは何度も足を運んだし、一緒に酒を酌み交わしたこともある。それは自然と、そうなったのだ。

一方、日産の鶴見、追浜、座間といった工場を見て回って、正直、驚いた。上下関係がはっきりしていて、工場側の発言力が弱いのだ。例えば、部品がうまく入らないとき、われわれは「設計が悪かった」と考える。ところが、日産で聞いた話は……ここでは詳しく言わない。非常に衝撃的だった。

また、設計が知らないうちに、工場の判断で板厚や成形方法を変えてしまう。そんな噂も耳にした。村山では、あり得ないことだ。われわれは本生産に入る前に、徹底的に詰めた図面を工場へ渡していた。だから量産段階でトラブルが起きることはない。その代わり、モノ作りの段階では数えきれないほど苦労し、意見を交わした。

村山工場で生まれたスカイラインは本当に幸せなクルマだった

村山工場で生まれたスカイラインは、本当に幸せなクルマだ。村山の人たちに、サラリーマン的な考えを持つ者はいなかった。完全に、モノ作りのエキスパート集団だった。工場が設計の言いなりになることは決してなかった。設計も工場も「ユーザーのためにいいクルマを作る」、それが使命だと本気で考えていた。だから両者とも、本当によくやったと胸を張って言えるのだ。

みんなが本気で細部まで気を配り、良くしようと懸命に努力し続けた。工場からも本当に多くの提案があった。そして荻窪の設計陣の思いを汲み取り、ひたむきに応えてくれたのだ。

日本の自動車工場には、どこか暗いイメージがある。でも村山は違った。工場は古かった。それでも働く人たちは皆、生き生きとしていた。ひとりひとりがユーザーの顔を思い浮かべながら、プライドを持ってクルマを組み上げていた。村山工場には確かに”魂”があった。あの空気は今でも忘れられない。

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