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スカイラインGT-RグループAプロトタイプカー開発の裏舞台

 

R32スカイラインはデビューウインと
勝ち続けることが「至上命令」だった

日産R32型スカイラインGT–Rといえば、1990〜1993年の4年間で、29戦29勝したグループAレースを抜きにして語ることはできない。
そんな、いまや伝説となったR32スカイラインGT-RのグループA仕様が初めて公開されたのは、平成元(1989)年9月のスポーツランド菅生だった。

R32スカイラインGT-RグループA仕様のプロトは、サイドシルプロテクターもなく、ドアミラーは市販車と同じ。給油口やデフやミッションのオイルクーラー位置が異なる。開発は故・高橋健二氏が担当

R32型スカイラインGT-RグループA車両開発の中心メンバーとして活躍していた山洞博司は、当時のことを次のように語る。

「開発途中のテスト車両を大勢のメディアの前で公開することは、それまでに前例がなかったことです。それは日産自動車として、『ワークスでグループAに参戦し、本気で勝ちにいきます』という決意表明のようなものであり、お披露目という意味もありましたので、ボディカラーもそれをイメージするものにしたい。散々悩んだ結果、PCG10(初代スカイラインGT-R=ハコスカ4ドアGT-R)がデビューウインを飾った39号車のカラーリングを模したものにしよう、と決まりました」

R32スカイラインGT-RグループAプロトのカラーリングのモデルになった、1969年のJAFグランプリを制したハコスカGT-R初優勝車。強いGT-R復活をイメージ付けるためのデザインだった

つまりあの銀と紺のツートンカラーは、ハコスカのように初参戦初勝利を目指すことをボディカラーでもアピールしていたというわけだ。R32スカイラインGT-RのグループAの勝利は、まさに「至上命令」だったのである。

山洞博司氏

「テスト車両が完成したのは1988年でしたが、それ以前からグループAに勝つために市販車開発と一緒にFIAレギュレーションを紐解き、ベースのポテンシャルを高めるところから始めています。排気量、タイヤサイズ、重量はもちろん、性能向上のためのパーツの開発や部品の耐久性などあらゆる側面を想定し、パッケージを煮詰めました」と山洞。

勝つためにレギュレーションに合致したクルマを作るというのは前代未聞で、R32スカイラインGT-Rは生まれたときから勝つためのポテンシャルを兼ね備えていた。

「R31スカイラインGTS-RグループAの開発のときは、ニスモにレース用のベース車両を渡すだけで、開発はニスモの手で行ってきました。しかし、開発現場からフィードバックされた情報を受ける日産側の窓口がありませんでした。R32スカイラインGT-Rはその体制を見直し、サプライヤーやレーシングチームの声を聞き、即時対応を行い、改良を重ねたことで開発のスピードは一気に上がりました」 

レース前に日産の開発部隊がテストし、次の仕様はこれでいいのかを確認した上で、ニスモや各チームにデータを配信するという形で開発は進んでいった。
「われわれは勝ち続けることが至上命令ですから、常にクルマを進化させなくてはなりません。サーキットに出向いてテストすれば結果が見えますよね。その結果を踏まえて、『この性能と耐久性があれば次も勝てる』と常に自信を持ってニスモやチームに情報を提供できました」

また、信頼耐久性の熟成にはタイヤ開発テストが大いに役立ったという。

「タイヤテストには開幕戦に参戦したブリヂストンさん(カルソニック号)、ダンロップさん(リーボック号)の2社だけでなく、開発当初からヨコハマさん、トーヨーさんにも参加いただいています。同条件でテストを行いたいので、時間を区切って同日に4メーカーのテストを行うため、スケジュールはタイトでした」

当然、各社ロングライフ性能を確認するが、1日に何度も走れば、レースと同様の周回を走るため、十分に機関の熟成も行えた。
開発車両も当初は1台しかなかったが、終盤には2台体制となり、1台は性能向上、もう1台で信頼耐久性の確認を行った。
不具合の洗い出しと性能向上にやり過ぎという言葉はないが、当時の鬼気迫る状況が伝わってくる。新機構であったアテーサE-TS(4WDシステム)に関しても中央研究所と一緒になって、駆動配分が徹底的に煮詰めす作業が行われていた。

インテークパイプやブローバイがスの取り回しなど本番車両と細部が異なる。最初の公開テスト時は熟成不足であり、安全マージンを取って過給圧を落として走行した

 

そのアテーサE-TSだが、グループA車両には駆動配分用に4つのダイヤルが付けられていて、各ダイヤルには天候や路面状況に応じた最適なイニシャルが入力されており、レース当日にチームが選択していた。

「サーキットでは市販車のような幅広い視野は必要なく、ピンポイントで最適な駆動配分であればいいのです。また、コースアウトしたときに可能な限りレースに復帰できるように、完全リジットになるダイヤルも設定しています。リタイヤしなければチャンスはありますから」 

開発後半にはアクティブLSDやスーパーハイキャスの融合を考えたテストも行ったが、いずれも時期尚早ということでレース投入は見送られている。
「当時は富士、仙台、菅生、美祢の各サーキットを使って、2週間に1回はどこかでテストを行っていました。初戦直前の美祢はまるで合宿のようでした。勝つために何をすべきか、徹底的に追い込みました。そして、迎えた開幕戦。オープニングラップで1秒以上の差をつけてスタンドに帰ってきたときに、胸を撫で下ろし、喜んだことを思い出します」

日産本体によるR32スカイラインGT-RグループAの車両開発は 1991年まで熟成が続けられ、その後はニスモに機能を移管。山洞自身はのちにR35GT-Rの開発チーフメカニックを務めたことでも知られているが、R32のグループA開発に寝食を忘れて没頭した日々こそが自分の人生の礎を作ったと述懐している。(文中敬称略)

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